四車ユキコさんの講演



 (四車ユキコさんの講演 『高暮ダムをどのように教材化してきたか』)
  2年前までは中学校の先生をしていました。20何年前に、県北の現代史を調べる会が出来て
おりまして、高等学校の先生とかジャーナリストとか。
 最後の授業ということで授業をさせてもらったんですけれども、だいたいその時の話しをもと
に今日はさせて下さい。30分ということですので端折って高暮ダムの全体の話しをさせてもらっ
て、その後授業で話した地元の方からの聞き取りの話しをしたいと思います。

◎「まず高暮ダムはどこにあるか 」

   
 「まず高暮ダムはどこにあるか 」ということですが、皆さんたいがいおいでになっていると思う
んですが、地図がありますので簡単に説明させて下さい。双三郡君田村のその北側に比婆郡
高野町があります。その高野町の下高暮というところにダムがあり、発電所は、沓ヶ原という所
と、君田に神野瀬発電所、君田発電所、森原発電所と4つの発電所があります。そして高暮ダ
ムで貯めた水は隧道というトンネルで神野瀬の発電所まで送られます。そこで電気を起こして
放水され、沓ヶ原ダムで水を貯めて、そして次に君田発電所で電気を起こして、また隧道で森
原発電所まで行きまして、最後は西城川へ放流するという仕組みになっています。
 神野瀬川というのはほんの狭い川なんです。V字方の谷になっているんです。そこへ堰堤を
作ってダムにしたわけです。大正時代からダムを作るという話しはあったんですけれども、戦
争のためにダムを作るということになって、1940年頃より工事にかかりました。 3番目にダム
の工事年表なんですけれども、だんだんと戦争が激しくなるにつれて、ダム工事が着工されて
いくわけです。私は中学校のクラブの生徒と一緒に調べたものですから、工事の関係者からは
聞いていないんです。現代史を調べる会の方では、聞いておられるわけですけれども。君田の
中学校で、君田のおじいさん、おばあさんに聞いた話しが中心になるわけです。
 年表の中に、草谷影正さんの話しと書いてあるんですが、草谷さんという方は高暮の方で
す。水没した地域の方です。立ち退きになられて今高野町の新市の方へおられるんですけれ
ども。
 今までは話しを聞きにいった人には話しをされるんだけど、自分からみんなの前で話しをされ
るタイプの方ではなかったんですが、もう4・5年前になりますか、自分で話しをするということで
話しをされるようになりました。
  年表の方の1939年、高暮にダムを作るということになって秋から冬にかけて「立ち退きをせ
え」ということになって、1940年の1月頃、代表が広島電機株式会社へ行って話しをするという
ことになったわけですけれど、地元の代表が行ったら、うまいぐわいに丸められて、判をおして
高暮へ帰ったという話しなんです。今でも、考えられないようなことですが、半年もしないうちに
工事がはじまるんです。それで1940年の3月15日から工事がはじまって、完成が1950年です
からだいたい10年かけてこれだけのものが作られたわけです。小さい道では物が運べないか
ら道路を広げるところから、作道といってスキーのリフトのようなものを、今の西三次の駅から
布野の方を通って、それで荷物を運んでいた。隧道というトンネルの工事とか、堰堤の工事と
か、発電所の工事とか、出来たら途中でも発電をするという状況でした。

◎工事はどのように行われたか

  
 
 それで工事はどのように行われたかということですが、これは竹林保さんという沓ヶ原の人に
聞いた話なんですけれど、ダムをここに作るということが決まって、工事をする会社の奥村組
いうわけです。発注するのが今の中国電力です。当時は日本発送電株式会社(日発)といつて
いたんですけれども。話では「ほんまにスピード工事でした」ということで、竹林さんがいわれた
のには、当時の買収に来た役人がこういうことをいったそうです。「このダムは戦争遂行のた
めに軍の命令で作る。水の一滴は血の一滴じゃ」「兵隊は国に体を捧げているのだから、国民
はみな戦争をしょうるんじゃけぇ、地方の者も協力せにゃーいけん」というて。それでも自分の
土地を放すのがいやじゃけぇ、ぐずぐずいうていたら「土地を売らんのんなら、土地収用法にか
ける」いわれて半年もせんうちにでにゃあいけんようになったと。
 さっきの草谷さんの放しにしても、竹林さんの放しにしてもひどいやり方だというのはわかると
思います。この人たちもやはり戦争の犠牲者だということです。

◎どのくらいの人が働いていたか
 どのくらいの人が働いていたかということですか、これは小野久子さんという櫃田の人で、櫃
田から櫃田へお嫁さんに行かれた人ですが、その方の証言では、煙草を配給しとったから
4000人ぐらいはいただろう。そしてその半分くらい2000人ぐらいが朝鮮人の労働者ではなかっ
たかと思うがハッキリした数字はわからない。そしてだいたい「一般徴用」で来ていた家族を入
れると、5000人から6000人は谷に住んでいたと思われると。そして「特別徴用」というのが、強
制連行という形で来た人のこと。
三次の駅に着くと、何処へ行くかわからないようにした幌をかけたトラックに乗せられたり、人
によっては目隠しをされていたり、10人・20人がトラックに乗せられて、地元の人は「集団が何
人来た」「また、集団がきた」と言っていた。「集団」というのはどこでもそういう話しを聞きまし
た。
 工事は、ブルドーザーなどの大きな道具があるわけではないから、モッコに石を入れて「チン
ヨ、チンヨ」というかけ声だったそうです。
 食事は後からまた朴さんにお話しを伺えばわかると思うんですが、いろんな方から聞いた話
しでは、昼にドンブリ飯とキムチを立ったまま食べていたという話しをききました。そして高暮へ
行ったら働き場があるからということで地元の人も行ったが、あまりにしんどいので一週間であ
きらめて帰ったという話しを聞きました。
 
◎工事の様子はどうだったか?
 そして働く様子なんですが、堰堤は3間(5,4b)に5間 (9b)くらいの木枠がたくさん組んであっ
て、一つの木枠に20 人ぐらいの朝鮮人労働者が、胸までの長ゴム靴を履かされて入ってお
り、ひざの上までコンクリートに浸かりながら、上から落ちてきた生コンを棒でつついて混入し
た空気抜きをして、隙間ができないようにしていました。索道を操作して生コンを下へ落とす係
は、はるか山の方にいて、作業現場を確認できないんです。ですから作業主任の笛を合図に
落とすのですが、それも騒音の中でよく聞き取れないんです。
 笛が鳴る、労働者は木枠に体をすりよせるように避難する。そこへ上から生コンが落ちてくる
という順序なのですが、生コンの中での体の移動はなかなか思うようにいきません。マゴマゴし
ていても作業主任は容赦なく笛を吹きます。ある時、生コンが落ちた一瞬に姿が見えなくなっ
たので、『おい、あそこに人がいたはずだ』というと、平気な顔をして『そんなことは知らん』とい
って相手にしなかったそうです。
 また仕事を下でしていたら、作業主任が上の方から石を投げるんだそうですが、それも大変
だったということです。
  隧道工事も大変な工事で、ダンプカーが入るくらいのトンネルが山の中腹に続いているんで
す。高暮ダムから神野瀬に抜けて森原まで続いています。その隧道工事も発破をかけるし、崩
した土は運び出さないといけないから横穴を開けるんだけれども、あんまり大きな横穴じゃなく
て小さな横穴をあけて土を運び出すのは非常に危ない工事だったといわれます。最初は発破
をかけるのに避難の合図があったが、いつもいつも避難していたら工事が遅れるので、大丈
夫ということで生き埋めになったという話しがあります。
 堰堤の工事も危ない工事だったが隧道工事も危ない工事だったようです。

◎どこから連れてこられたか?
 それでどこからつれて来られたかということですが、朝鮮半島の南の方、慶尚南道、慶尚北
道、そして江原南道や済州島から連れてこられた人が多かったそうです。年齢は15歳から16
歳の人たちも日本へ働きに行ったら日当は何ぼうでとか、3年間辛抱したら田が3反から5反
買えるというふうに騙されて連れて来られたわけです。それが一般徴用ですが、特別徴用は奥
村組が直接管理していたわけです。

◎ 飯場の様子はどうだったか
 飯場の様子はどうだったかということですが、「君田村櫃田誌」によれば、水田にはほとんど
バラックが並び、「内地人」、朝鮮人の飯場が創られ、全工区の人夫の数は、家族を含めて一
時は5000人〜7000人に及んだ。
 建物の周囲は板で囲いがしてあって、坑木を立ち並べて出られないようにしてあった。窓に
はすべてタル木を5寸釘で打ち付け、飯場によってはハッピ姿の用心棒のような者がいて、シ
ェパードを連れて見回っていた。
 
◎逃亡・リンチがどれくらいあったか
 そして逃亡・リンチがどれくらいあったかということですが、なれない作業に逃げ出す者も多か
ったが、すぐ組の世話役やら、請願巡査がシェパードを連れて山を捜し、8割がたは連れ戻さ
れただろう。つかまるとみんなの前で、モッコの中に入れて、水の中に浸けたり、トロッコのレー
ルの上に座らせるとか、動いたら叩かれるということで、何日も動くことが出来なくなるというこ
とがあったようです。それは高暮の人よりも櫃田の人が目にされていたようです。
 それでも仕事がきついから逃げる。竹林さんからの聞き取りですが、集団から「 どう逃げたら
いいか?」と相談を受けたことがあるそうです。逃げ道としては、三次の方や広島の方へ逃げ
るとすぐつかまるので、島根県の赤名(赤木町)の方へ逃げる道を教えてあげたそうです。逃
げる時は一人で逃げたらいけん。地理がわからないので、山へ逃げ込んで闇夜の中をやつと
たどりついて、夜があけてみたら奥村組の事務所のそばへ出て捕まったことがあるので、「月
夜の晩」に逃げるように教えたそうです。また逃げる時には、乾パンとか何かを蓄えとって、服
も洗濯物をちょっと失敬をして着替えて逃げなさいと教えたそうです。
 小野さんというおばあさんは、逃げる人に握り飯を渡したり、いろんなことをしとられるんです
が。

◎地元の人はどうかかわってきたか
 最後、地元の人はどうかかわってきたかということですが、地元の人の聞き取りを絵にした
ら、子どもたちもわりとよくわかってくれました。

 
 
 これは、草谷さんの話しです。45軒の農家の人が立ち退きになったんです。立ち退きになる
と自分の家に火をつけて焼かないといけないんです。そうせんと柱とか藁が堰堤にひっかかる
んじゃないか、だからというんで家を焼いて出るんです。夜になると火が見えるんだせそうで
す。いよいよわしらぁ何にもないなるのお思うて、情けなかったという話しがありました。
 
 藤永さんという広島からこられていた人が、今もって忘れられないことがあるんですといって
64歳・65歳ぐらいのおじいさんが話しをされました。
 小学校4年の時、冬だったそうです。窓の外をみょおったら、何人かのつかまった人が連れ
てこられて、目隠しをされて裸足だったそうです。一人が躓いたら、飯場頭か何かでしょう。鞭
が跳んだんだそうです。コマを回す時のような鞭だそうです。一人が躓くとみんなが躓くんだそ
うです。その時私は悲しかったですといわれました。その時に絵を描いてくださいました。


 これは草谷さんが話されたことですが、炭焼きをしていたら、逃げてきたなあと思う感じの人
が来て、どっちえ逃げたらええか教えてくれ、言葉は通じんがだいたい身振りでわかった。炭焼
きの灰の上に描いて教えた。そして地下足袋の破れたのをはいているから、二足もっとったえ
えほうを履かせて、餅を焼いて逃げさせたということです。どこへどうにいなっとるか、わしゃあ
気になってしかたがないんですよと。

 これは小野のおばあさんです。握り飯をあげたりいろいろしとってです。何でそういうことをし
ちゃったんと子どもと一緒に聞きょうるところです。するとすぐ、私も戦争の犠牲者なんだから
と。どうしてかといとこの小野さんの連れ合いが、戦争に行ってすぐになくなったんだそうです。
上の児は少しおとうさんの記憶があるが、下の子はないそうです。だから、兵隊服を着ている
写真をさして「これがおとうさんよ」と教えてあるんだそうです。すると余所の人が兵隊服を着て
きてなら、「あれがあとうさん」と聞くもんじゃから、それがかわゆうていけんかった。「私も戦争
の犠牲者なんだから、あの人も戦争の犠牲者どうしは手を結べるんだ」と何のてらいもなくスッ
と言われるのを聞かせてもらいました。

こんな話しを生徒に手を替え品を替えして、また現場に行って話しをすると、こういうことがあり
ました。

◎「心の靴を脱ぐ」
 広島の高校生のことですが、ようやく仲間うちでは本当の名前を言えるようになったんだけれ
ども、まだ外に出たら言えない子どもでした。何回か来るうちに、だんだんわかって来たんでし
ょうね、後からその子の先生から葉書を頂きました。「あの時の子どもたちが堰堤をようあるか
んかったんじゃ」という話しを書いて送って下さいました。女の子が一人ほど歩かないと言い出
したんだそうです。どうして歩かなんのと聞くと、「もしかしたら、私と同じ血が堰堤の中に埋めら
れとるかもわからんと思うたら歩けんのじゃ」と言うて、靴を履いちゃあ歩かなんいうて、裸足に
になってから歩いたんです。そしたら他の子も「そりゃぁ、そうじゃね」といって裸足になって歩い
たということを書いて頂きました。私は、「こりゃあすごいなぁ。心で受け止めてくれるということ
は大切なんだなぁ」と強く思いました。
 実は、その話しを余所で子どもに話しをしたんです。するとある生徒が、他の子はスッと渡っ
たんですけれど、中に渡らん子がおって、自分のおとうさんに、「おとうさん、ぼかぁどうすりゃあ
ええんか」言うて聞いたんです。そしたらおとうさんが、ちょっと答えに困っちゃったんですけれ
ども、「あんたは靴は脱がんでもええけど、ここを渡る時は、心の靴は脱いで渡れ」とおっしゃっ
たんです。そしたらその子はどうなるかのぉと思うたら、わかったんでしょうね、ウンいうてから
そのまま渡りました。あと、フォローをどうしてかなぁと思ったら、おとうさんが帰ってきた何人か
の子どもを集めて話しをされたんだけど、「こういう歴史があるということをいつもいつも憶えて
おけぇと言うても、あんたらに出来るわけはないんじゃけれども、とにかく電気を作るということ
は、いろんな人の血を流したり汗を流したり生命をかけて電気をこしらえているんだから、そこ
のことはよく考えにゃあいけん」「電気を大切にするということも、この人たちのことを考えること
になるんだから」と言われたんです。「それが心の靴を脱ぐことなんだ」と。
  私はこの話しは、証言から次へ何となく、ええ話しが生まれたんじゃないかなと思いますか
ら、絵を使ってお話しをさしてもらっているんです。



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