(はじめに)
みなさんこんにちは。実は1月頃に、実国先生と西善寺の小武先生、山田先生が境港に来ら
れまして、今日ここで学習会をやりますので参加してくれないかということでありました。実は去 年も参加してほしいということを言われましたが、腰痛で体が思うように動けませんので、それ で今年は是非とも参加しなければと思いました、参ったような次第です。
今日は高暮ダムの話しを交えて、それから少し趣向を変えまして、「日朝併合条約」がどのよ
うにして始まったか、主にずっと前のことはさておいて、1905年、1907年、1910年の8月22日に 締結されました、その立て役者が誰であるか、いろいろその間のドラマがありますので、ここに おられる皆さんは今までの学習を通して私がお話しをしなくても十分ご認識のことと思います。 しかし、中には私の話しの中には、あれは初めて聞くんだなということもあるかと思いますので しばらくの間、聞いてやって下さい。
私はまず本日の学習会に参加させて頂きまして、光栄に思っております。私は高暮ダム強制
連行で犠牲者の遺骨の発掘作業を長年にわたって携わってこられた福政先生をはじめ、実国 先生、西善寺の小武先生をはじめ高暮ダム強制連行を調査する会の皆さん、その他ご協力 下さった皆さま方に対し、私は犠牲になった友人とその遺家族になりかわりまして心より感謝 申し上げます。
発掘作業は広汎な山野を駆け回り、標識もない遺骨を見つけだすのは大変だったと思いま
す。すでに23体の遺骨が母国に帰され、この度新しく6体の遺骨を母国の土に帰す予定だと聞 いております。この作業はまことに尊い行いであり、民族を越えた人間愛に満ちた行動だと思 います。私は重ねて心より感謝申し上げます。
(わたしの高暮での強制労働体験)
私は高暮ダムの話しは何回か話してまいりましたので、今日はその一部をお話をし、少し趣
を変えまして、植民地支配がどのようにしてはじまったかを大筋の部分と、強制連行の全体像 について、お話しをしてみたいと思います。
私は1942年2月に政府の命令と奥村組の強制で、高暮ダムに連行され、1943年5月まで朝
鮮半島からの強制連行者と一緒に、強制労働に従事しました。私は高暮ダムでの体験を通し て、奥村組の現場での連行者に対する非人間的・非人道的行為を見てとることが出来ました。 連行者は人間扱いではなく、奴隷扱いと道具扱いであり、死ねばまた朝鮮半島から引っ張って くればということを感じておりました。私が高暮ダムに入って住んでいた家の周囲に、飯場が十 数軒あり、床にはムシロを敷いただけで、煎餅布団一枚だけで眠る。中には疲労のあまり、作 業着のまま寝るものもおりました。夏は比較的寒くないから、煎餅布団でもいいんですけど、冬 は寒いので、疲れとひもじさと、それから夜7時も8時もなって、残業から帰って、それから雑魚 寝をするんですね。脱いだ服を紐で吊って引っかけておくと、シラミが一匹二匹じゃなくそうとう はっておりました。その当時はシラミがいるのがあたり前でしたが。それで中に綿の入ったシャ ツを着ていると、一々手でとる。七輪に火を起こして、ひっくりかえして当てるとシラミがボロボ ロボロボロと出てくる。それを拾って火鉢に入れると、まあそういうありさまでありました。食べも のは、汁がつきます。日本人の場合も朝鮮人の場合も汁がつきます。みそ汁でも何でもいい んです。必ず朝と晩は汁がないとご飯が食べられない、東洋人はだいたいそうじゃないかと思 います。それで、そういう粗末な食べ物にしても腹八分目ぐらいは食べさせないと、突貫工事が すすまないですね。食べさせないで、やれといったって、死んでしまえばそれまでですから、あ るていど不味いもんでも腹八分目ぐらいは食べさせていた、それはよかったと思います。 賃 金は一日二円五十銭ぐらいで、一般の労働者の40%ぐらいじゃないですか。強制連行者でな い人は一日6円くらいもらっています。強制連行者はその40%の二円五十銭から二円七十銭く らい。そして飯代を一円ぐらい引いて、石鹸だとかタオルだとか、それから地下足袋代も引く と、残らないわけですね。それも普通に働いて、体が弱くて働けないものは、飯代も払えない し、飯場頭から、蹴られたりこづかれたり、そういう状態もありました。
連行者は名前を呼ぶんじゃなくて、背中に張ってある番号を呼んでいました。一番とか五番と
か、百番とかあるいは千番とか。そうすると連行者は、俺たちも名前があるんだ、なぜ道具あ つかいにするのか?、とっ言ってぼやいておりました。「ニムンセキダ」(このやろうたち)といっ て、
「ニムンセキダ」「ニムンセキダ」「何で名前をよばないんだ。番号で呼ぶのか」。そういうことが
日常のことでした。
工事ではあちらこちらで死ぬものが出ましたし、隧道工事の落盤事故で一番たくさん死にまし
た。それから生コン埋まって死んだもの。上すからものすごい勢いで落ちてきます。それからシ ュートの修理をしている途中で、落下してきたもの。シュートはだいたい七・八十センチありまし て、長さがおおかた七十メートルぐらいあるんじゃないですか。だいたい今の堰堤が七十メート ル近くあるんだと思いますが、その上に二十メートルぐらいの所に吊り橋がありました。その吊 り橋の上からシュートで生コンを落とすんです。ものすごい、ザーという音がして勢いよく落ちて くる。その下でそれを受け止めて固めるんです、胸までの長靴を履いて。 それに巻き込まれ て、「今そこに人が立っていたのに、今見えなくなった。あっ埋まったんじゃないか。」。でもどう しようもないんです、生コンが上からどんどん落ちてくるから。それは助けようもないですね。
そのような恐ろしい状況でありましたし、逃亡者がよく出ます。逃亡者がいつよく出るかという
と夏と秋。山に行けば、アケビとか栗だとかという食べ物があります。冬は雪でなかなか逃げら れないし。逃亡者が出ますけれどなかなか成功はしません。そして逃亡者が出ると、奥村組の 監督、それから組の連中、駐在所や消防団まで応援をして山狩りをします。そして一晩か二晩 か山の中を歩きまわって、方向音痴になって、気がついたら元の高暮ダムの所に帰ってきて 捕まったということが多々あります。そしてつかまるとリンチが始まります。リンチが始まると、 そのリンチのために中には死ぬものもおりますし、それから体を悪くするものもおりますし、だ けど飯場頭をはじめ、その横で見ている者は、それを助けることは出来ません。それを助けよ うとしてロープを解くとかそういうことをすると、その者も同罪としてやられますから。とても厳し いものでありました。
私の一年間は、シュートから落ちてくる生コンの地ならしと、そしてその生コンが何日かたつ
と上の皮が乾きますね。すると両方が尖ったトンカチという金槌でそれをハツルんですね。だい たい一つの箱が畳でいえば30畳から50畳ぐらい。それがダムの場合上に上がっていくにつれ て広くなりますから。それをハツッて、ゴミ一つあっても駄目なんですね。それでないと上から落 とした生コンがうまくひっつかないから。皮をハツッてとるのが大変でした。手に血豆が出来て、 軍手をしてもなかなか直りませんでした。
それから一年間は高暮ダムで生コンの仕事をやっていましたが、あとの半年は神野瀬に降
りてきまして、そこからセメントとし砂利を索道に乗せる仕事をしていたんです。三次方面から 砂と砂利とセメントが神野瀬に運ばれてくる。神野瀬から山を越えて、高暮ダムまで索道という のがあるんですね。その当時おおかたセメント一袋が50キロはありました。それを二人でだい たい一分間ぐらいの間隔で、ハンキというのがやってくるわけです。早くやらないと入れ物がた まってくる。セメントを入れる者、砂を入れる者、だいたい十人ぐらいで奥から運び出す者と、そ れを積み込む者。それをしきりにやっておりまして、とても仕事がエライというか大変でしたね。 それで私も過労に絶えかねて、1943年5月に物資を運ぶ定期便のトラックに隠れて乗り、三次 を経由して、今は三次ですけどその当時は、備後十日市駅。三次という名前がいつついたか 私はわかりませんが。そして隠れて乗って、運転手に気づかれないようにして、備後十日市駅 の五十メートルぐらい手前でおりて、それから昔の木造立ての旅館で一晩お世話になって、そ れから芸備線に乗って、米子の方へ行ったんです。
そして戦時中、私たち同朋は、亡国の民として、単なる差別ではなく、抑圧というか迫害を受
けてきたものであります。
米子へ行ったんですけどそこは、米子海軍航空隊美保基地建設をやっていまして、そこには
兵舎をたくさん建てていました。予科練の養成をし、特攻隊の養成をするところ。そこへ行って 私も飯場に入って働くようになりましたが、高暮ダムに入った時が15歳です。それからその米 子の特攻隊基地の建設に入ったのが16歳です。働かなければ特高の目が光っているから、南 方方面にでも送られると。生きてはよう帰らないでしょう、そういうところに送られれば。特高に 睨まれるとどこにやられるかわかりませんから。それも突貫工事じゃないと、いつ何処へやら れるかわからない。高暮ダムに来た労働者を他にひっぱって行くことはありません。飛行場も 一旦そこへ来たものを他へひっぱって行くことはありません。そこへ行ってみると、朝鮮半島か らあるいは日本各地から、約3000名の徴用者が来ておりました。それらと一緒になって仕事を したんですけどね。
(「日韓併合」による植民地支配の実相)
「日韓併合」による植民地支配はどのように始まったか、大筋の部分を見ることにします。
「併合条約」の五年前、1905年11月、第二次日韓保護条約というのを締結しましたが、この不 平等条約は、伊藤博文が軍事力を背景に五箇条からなる不平等条約を迫ったのに対し、朝 鮮の国王・コジョンはこれを反対したのですが、伊藤博文と長谷川義道大将は軍隊を率いて宮 城を取りまき、軍事的圧力をかけて、条約締結を押し切ったのであります。
こうして1905年には「日韓併合」の5年を前にして、日本は内政・外交・経済・通信・司法・警
察権を掌握するようにんなりました。こうして伊藤博文は1910年に強行される「日韓併合条約」 のすべての土台をつくったのです。しかし1905年までに何回も日韓を往復はしているわけです が。その御、伊藤博文は1909年10月に、ハルピンで帝政ロシアの大蔵大臣と会うため、ハル ピンの駅に到着した時、朝鮮の独立運動家・安重根によって暗殺されました。そして安重根は ハルピンの駅でロシア人に逮捕された後、日本側に引き渡され、1910年3月26日、旅順の監 獄で死刑になりました。偉い人を暗殺したんだから、植民地下であるんだから、あまり裁判らし い裁判もせずに処刑されたように聞いています。
植民地支配とは一体どのようなものであるかを見てみたいと思います。1910年8月22日、日
韓併合条約を締結し、寺内正毅が初代総督府に就任しました。それは陸海軍大将の中から初 代の総督に就任したわけです。1910年8月29日には朝鮮全域にに渡って、朝鮮を完全占領し たということを朝鮮総督府は宣言するのであります。そして武断統治を実施しますが、憲兵・警 察による統治を行うわけでありますが、それで政治・経済・軍事・外交権及び、一切の集会・結 社・言論・出飯の自由を剥奪するのであります。朝鮮各地に二個師団以上の陸軍を配置し、全 国津々浦々二千五百カ所に憲兵・警察機関を張り巡らす武断統治を実施するのであります が、そのため民衆は恐怖の中で生活を強いられます。
そしていよいよ1936年に公民化政策がはじまって、1939年11月には創氏改名に関する制令
が制定され、民族性抹殺がはかられます。ここでいわゆる同化教育がはじまるわけです。朝鮮 の名字を使ってはいけない、朝鮮語を使ってはいけない、日本の名字に変えよ、というようなこ とになりますね。そして、例えば金本とか新井だとか、私は今でも井原を使っていますが、これ は一部ですけど。例えば金本というのは、朝鮮には「本貫」(ホンガン)というものがあります。 本貫は自分の一番最初の先祖が生まれた地名をとって、 本貫と言うんですねえ。どこどこの 金氏、どこどこの李氏だとか、じゃあ日本名に変えろというなら金本にすると、それが社会的に は通名となって、今およそ63万近くの在日韓国・朝鮮籍がありますが、家に帰ると本名を使う、 社会的には金本とか金村とか使っていますね。
それで戦後1952年、サンフランシスコ講和条約がありました。サンフランシスコ条約の直後、
日本国籍を一方的に剥奪し、そのためにいろいろ制約を受けるわけであります。
ここで私が言いたいのは、1945年8月15日をもって、日本は敗戦を迎え、私たちは日本の植民
地から解放を迎えたんだから、日本の国籍はいらないんです、だけど二重国籍を持っていたん ですよね。それを1952年のサンフランシスコ講和条約で一方的に剥奪されて、何の前触れもな く、それでどういうことが起こりますかというと、日本国籍ではないからということで、国民年金に 入ることが出来ません。1961年から国民年金は始まりましたね。公営住宅にも入れない。国民 健康保険ももらえない。教育助成金ももらえない。そういうことでありましたが、国民年金は私 たちは今でもありません。日本には朝鮮学校が百校以上ありますけど、助成金もないし、今国 会で問題になっていますけれど、日本の国立学校の試験を受けることも出来ない。それで私た ちは市とか県とかあるいは国会議員へ数十回、数百回の陳情をしまして、ようやく公営住宅と 国民健康保険は、現段階ではもらえるようになりました。
それで公民化政策では、皇国臣民の誓いを唱えさせられます。皇国臣民の誓いとはどういう
ものかといえば。
一つ、われらは皇国臣民なり。終生もって君国に報じる。
一つ、われらは皇国臣民は、互いに親愛協力し、もって団結を堅くせん。
一つ、われら皇国臣民は、忍苦鍛錬力を養い、持って皇道を養成せん。
つまり一言で言うと、われら朝鮮民族も、天皇の教えを守り、天皇の道を進むということであり
ますけど、これを唱えさせられる。それで学校とか官庁とか職場とか飯場とか、私たちは飯場 におりましたけど飯場でも、「お前、皇国臣民を唱えてみよ」と言われます。朝鮮半島において も、これが唱えられないと郵便切手が売ってもらえなかったり、旅行に行くのに切符を売っても らえなかったりという制約がありましたね。
次に強制連行がどのようにして始まったかという全体像に入ってみたいとおもいます。1938
年、日中戦争も全面戦争に至った時でありますが、1938年に国家総動員令が日本政府によっ て出されましたが、第二次世界大戦の準備と戦争遂行の目的のため、不足している労働者を 補うため、強制連行が強行されました。強制連行の方法は、朝鮮総督府の寺内正毅の命令 で、十三の道・町・市・面・郡・区に割り当てをします。実行には警察と軍隊、と補導員、警察と 軍隊は日本人、補導員というのは朝鮮人ですが、時には寝込みや野良仕事をしている所を襲 い、釜山港から下関、博多、舞鶴港に運んだ模様であります。強制連行の全体像について は、1938年から1945年まで8年間に集中的に行われています。強制連行者の数は、840万 1900人に達していると、これは去年の末か今年の初めになって、日本帝国時代の文章からこ の数字が出たんですね。私たちはそれまでは、だいたい強制連行の全部の数は600万くらいで はないかといっていたところが、実は840万だと日本帝国主義時代の文章から出てきたわけで す。その内訳は、強制徴用者が778万人、これは高暮ダムの連行者も入っていると思います。 陸海軍徴兵が24万人、陸海軍軍属が15万4千人、従軍慰安婦が約20万人、陸軍志願兵が1 万7千人ぐらい、学徒兵が4千3百人くらいです。
その強制連行者がどこに配置されたかというのもございます。軍需工場に約40万人。炭坑は
主に、筑豊炭坑とか夕張炭坑などに、約60万人くらい、金属鉱山に15万人ぐらい、水力発電 所、これは高暮ダムも入ると思いますが、5万人くらい。港湾工事に5万人くらい。鉄道工事に 約3万人くらい。軍用工事・防空壕堀りなど合わせて30万人くらい。それで軍属が37万人くらい ですね。それ以外に大多数のものは戦地での陣地作りですね。
特に南方が多かったと思います。日本の兵隊の200万から250万よりはるかに多い、500万な
いし600万は、どのようにしてはこんだのか陣地作りとか弾よけとか、或いは塹壕堀りとか、そ ういうところに連れていかれたと思います。強制連行者は多くは南方方面に運ばれました。840 万のうち戦争が終わっていったい何人ぐらいが生還できたか、これは解っておりません。
鳥取県岩美郡荒金(旧小田村・荒金)に1943年の地震で、そのボタ山が崩れて、朝鮮人28
名、日本人37名、合わせて65人が今も地底深く埋まったままになっています。高暮ダムのよう に先生方が全部ではないがこうして、空の見える所にあげていただいていますが、あそこは埋 まったままです。それで私たちは鳥取県庁に何回か参りまして県知事さんにもお願いしました、 「何とかあれを掘り出してやつてくれんか」。ところが、あんまり土砂が膨大で手をつけることが 出来ないんだと。県が出来なければ国に頼んだらどうですか?と言いましたら、まあ考えて見 ますということで、いまだにちゃんとした返事はありません。
私は今、遺骨を見て思いますが、この人たちが強制連行で来る時は、まあだいたい25才か
ら30才くらいだと思います。そうするとそのおとうさん、おかあさんは50才くらいじゃないかと思 います。今この人たちの親が生きていれば、105歳から110歳くらいで、この人たちが85歳くら いになっている。私が15歳だったのが今75になっていますから。私が思うのは、この人たち が、強制連行でせ不幸にも来たけど、工事が終わって、あるいは戦争がすんだら親元に帰る という希望を持っていたと思います。無念にもこうして異国の地で亡くなったということですね。 それ以上に無念なのは、自分の子どもがせめて戦争が終わったら、帰ってくるんじゃないか と、首を長くして待っていたのに帰ってこなかった。死ぬまで残念無念な思いで、親がその人た ち以上に無念じゃなかったかと。それを思うと、やっぱり胸を締め付けられるような気がします ね。それでもこうして先生方の努力で、何十体が出してもらって本国に、自分の祖国の土に返 してもらえるということは、不幸中にも幸いだと私は思います。本当に有り難いことでございま す。
私たち在日同朋も、強制連行と密接にかかわっております。その第一の原因は、植民地支
配による強制連行でありますし、第二の原因は、土地調査事業が1912年。日本政府と朝鮮総 督府によって、朝鮮で土地調査事業がはじまりました。多くの中小農民が、土地を奪われ、生 活のすべをなくし、日本や中国に流浪するようになりました。それで今でいう38度線より北は、 満州の方へ開拓と言ってたくさん行きました。38度線以南、主に慶州北道、慶州南道、全羅道 などは日本に沢山きました。土地調査事業は朝鮮の地主を統治の柱にしたてて8年間で農民 の土地を百万町歩以上を容易に収奪することが出来ました。奪った土地は日本人の大土地 所有とする一方、日本の東洋拓殖会社が7万8千町歩を所有して、朝鮮で最大の地主になり ました。1918年には、全耕地の半分以上が農家戸数のわずか3%あまりの地主が所有するよ うになりました。この地主は朝鮮人ですが、土地調査事業の水先案内の代償として、また調査 事業で得た土地を朝鮮の地主にわけたのです。
このようにして、故郷を追われた中小農民と、強制連行者を会わせますと、1000万以上にな
ると思います。在日同朋も、強制連行の生き残りとその子孫でありますが、1945年8月15日現 在、日本国内には私たち同朋が240万人ぐらいおりましたが、その内2年間で、75%にあたる 180万人くらいが色々な方法で帰国しました。その色々な方法というのは、日本政府の行政が まだちゃんと出来てないから、政府から輸送船がなかなか回ってこないんですね。だから在日 240万の同朋は、解放の喜びと望郷の念にかられて、1日も早く自分の故郷に帰りたいと、ま た博多とか下関とか舞鶴とか境港にも沢山集まりました。境港からも2700名小さい船をチャー ターして帰りました。こんな小さい船ですから、途中でひっくり返って死んだ人も沢山おります。 境港の2700人のうちには、私の父母と兄弟6人が一緒に帰りました。船はひっくり返っていな いです。しかし帰ったけど生活がなかなか大変だったと思います。現在の在日同朋は63万人く らいいますが、そのうち90%が2世・3世・4世であり、これはまさに植民地政策の産物であり、 落とし子であると思います。
日本には外国人が150何万かおりますが、その内63万が在日朝鮮・韓国人ですから、かなり
の数ですね。
それでさっき国民年金のことを言いましたが、国籍条項から私たち在日同朋の場合は、外し
て、ちゃんと日本人と同じ国民年金を認めなさいと言ったけどダメでした。それで植民地政策と 強制労働と在日のことを言いましたが、歴史認識がたいせつです。とくに現代史、約100年の 間にどういうことがあるか、「日韓併合」がどういうものか、社会科の先生が教えようとしてもな かなか教えられない制約というものがあると思います。書店に行ってもなかなか売っていない し、先生が勝手なことをしゃべるとおこられるし。
私の所には大阪から社会科を教える先生が数十人訪ねてきました。高暮ダムの話しもする
し、特に歴史認識の問題。日本の中学生が韓国に旅行に行った時、歴史問題の話しが出ると 180%話しが合わないんじゃないか。日本の学校の教科書には、日韓に関する植民地政策な どのことは僅か何行ぐらいじゃないですか。韓国の教科書には、だいたい20頁近く書いていま す。だいぶ具体的に出ているんですね。だけど日本の学校では、あまり教えていないんじゃな いかと思います。戦後世代に、日朝、日韓、日中の現代史の真相を学ばせなければならない と思いますが、これを隠蔽し学ばせず、歪曲したままでは、近隣諸国との真の理解と友情は生 まれないと思います。やっぱり表面だけではダメだと思います。
現代史を直視するということは過去にこだわるのではなく、ここから教訓を得ることが重要だ
と思います。特に歴史教科書の問題では、韓国・朝鮮・中国との間で、毎年話し合いを行って いるようでありますが、未だに結論を見ることは出来ていません。歴史認識について、政治家 が暴言とも言うべき、ここには誰がどういったかという名前を控えていますが、名前はいいませ んが、ある大臣は「日韓併合は円満に行われた」、しかしこれは円満じゃなくて軍事力を背景 にしておこなわれたわけです。ある大臣は「日本帝国主義は栄光の帝国主義であった」と。そ の当時の日本帝国主義の幹部たちには栄光であったか知らないけれども、支配される側は栄 光であったんでしょうか。まあそうじゃあないですね。またある大臣は「日本の植民地統治は朝 鮮民族にとって不幸だったとは思わない」と。またある人は「侵略であったかどうかは、後世の 歴史が判断する」と。今の人がなんにも教えないのに、これから生まれてくる人がどうしてこれ がわかるでしょうか。理屈にちょっとあわんでしょう。まあ、そういうことを言って言い逃れをして いるんだろうと思いますがねぇ。
日本政府は戦後58年間一貫して、「日韓併合は合法的に締結された」と主張しております
が、扶桑社の歴史教科書を開いて見ますと、その問題になっていますが、その教科書でさえ 「日本は韓国内の反対を武力を背景に押し切って併合を断行した」と書いています。とても円 満とか平等ではないんです。どこの国がすべての権利をすべて剥奪されて、平等で判子を押 す国があるでしょうか、私はないとおもいます。
1907年、オランダのハーグで開かれた万国平和会議に代表を送りました。その条約の無効
性を訴えるためでありましたが、日本側の妨害によって失敗に終わりました。ドイツの前々大 統領ヴァイツゼッカー氏は次のように述べています。「過去に眼をとざすものは、結局のところ 現在をも見失う」「非人間的行為を心に刻もうとしないものは、再びそうした危険に陥りやすい」 と。
ヴァイツゼッカー氏はナチスが犯した犯罪ではありますけれども、周囲の被害がもたらされた
国に、1995年までに約600億ドルの賠償金を払っています。膨大なお金です。それは大変立派 なことだと思います。
おわりに私は、日韓・日朝の両国民が、新しい歴史認識に基づいて「近くて遠い国ではなく、
近くて近い国でありますように」と願うと同時に、これから先、両国の国民がいっそうの親善の 発展を祈念いたしまして終わりたいと思います。
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