(「日の丸・君が代」の強制が目に見えたのは3年前−2002年)
1999年8月、広島県教委からの「日の丸・君が代」強制による広島県世羅高校の校長先生の
自死を利用して、国会において「日の丸・君が代」が国旗・国歌として法制化がなされた。その 時政府は、「強制するものではない」と繰り返し述べたが、いかに国の言葉が虚偽に満ちたも のであるか、今や東京や広島のみならず、全国で証明されている。
私の住む広島県三次市でその影響が出たのは2002年の4月であった。前年の夏に市長が
急死し、市長選の結果、若い新自由主義・新国家主義バリバリの市長が当選し、市の行政が 大きく右旋回をしたのである。新年度になり、市長より「4月1日をもって市内小中学校等の市 の施設には常時『日の丸』を掲揚せよ」という「業務命令」(校長談、市に確認すると「指導」とい う)が出された。私の地元の小学校でも4月2日には日の丸がメインポールにあがり、翌3日に は公民館のポールにも旗めいていた。市長から市の職員が旗が揚がっているかどうかチェッ クのため歩かされたという話しもあり、数日のうちには市の施設には日の丸が揚がることとな った。
私もその年(2002年)4月8日には二男の小学校の入学式に出席した。会場は新しく建った
ばかりの奇麗な体育館であったが、長男・長女の過去二度の入学式とは、式の様子も大きく 様変わりしていた。ステージ正面に貼られた日の丸に新入生も在校生も向かっている。そして 校長先生は「日の丸」を背に高い壇上から生徒に話しかけるという構図。そして式の始まりは、 「起立、国歌・君が代、斉唱」であった。教職員・来賓・保護者・生徒の中で坐っていたのは私と 妻の二人のみだった。
数日後のPTAの役員会の折、「日の丸」の常時掲揚は市からの「業務命令」でやむを得ない
という校長の釈明に対して、「では『日の丸・君が代』の歴史について子どもたちにキチンと教え てほしい」と私は申し入れた。しかし「教える内容もチェックされる」という校長の返答に、「市側 の強制は、一気にここまできたか」という思いがしたものである。
その当時3年生の長女が私に、「私は日の丸・君が代は嫌い!」と答えたことをおぼえてい
る。「生徒の自主性を育てる」ということを語りながら、先生も周りの大人も「上からの命令に右 へならえ」では看板に偽りあり。子どもは大人の姿を見抜いているとの思いを強くしたのであ る。
(「個人」よりも「世間」?)
市長は選挙の時から部落解放運動と教職員組合を目の敵として公言してきた人物である。
有名大学進学を年頭においた、「10年で教育日本一の市へ」と公言している市長は徹底的に 学校現場にも管理・統制と選別・差別のやり方を導入してきた。市独自の学力テストの学校・ 学年別公表や習熟度別学級、さらには中学校区自由化という選別・差別と、「私(市長)の方針 に従わない教職員は遠くへ行ってもらう」と公言して憚らない非民主的なやり方で今もものごと が進められている。このままでは学校は、市行政の玩具になる、「子どもたちと先生の防波堤 に一寸でもなれないか」と思ってPTAの会長に立候補したのが2003年。その年は副会長、そし て2004年、今年2005年と会長を務めている。
2003年の3月、会長に立候補し、信任を受けた時の総会で、「私自身の思想・信条から、PT
A会長として出席する入学式・卒業式の、『君が代 斉唱』の時に私は坐ります」と最初に宣言 をした。しかし今から考えればこの宣言は、会長になった私が問われるだけではなく、PTAの みならず地域へも、「個の尊厳」「思想・信条の自由」がどれだけ事実として尊重されるかの か、「PTA会長になれば、たとえ個人的には『日の丸・君が代』に反対の意見を持っていても、 歌わないまでも立たねばならない」、言葉を変えれば、「個人の考えて行動するのではなく、“世 間”に従うべき」というのかと、問うことにもなったと言えるだろう。
(差違が認められるPTAに)
2004年度の3月のPTA総会で、「PTA会長は卒業式の国歌斉唱の時はどうするのか?」と
の質問が会員から出された。私は、「自らの思想・信条に従って「君が代」斉唱の時は座る」と 答えた。すると会員からは、「きめられたことには、従わなければいけないんじゃないか」「きま りはきまりとして守らなくては」という意見が何人かの会員から出され、総会の緊張は一気に高 まった。そこでは自由に意見の言える雰囲気では確かになかった。ある一人の会員は後で、 「私はあの雰囲気は恐かった」と語っていたが、今までも他の事で会員の中で意見の違いがな かったわけではない。では何が「恐い」ほどの雰囲気を作り出したのかと言えば、学校現場、さ らには地域にまで及んでいる国と県、そして直接には、処分を公言して憚らない市と市の教育 行政の問答無用の圧力が無意識の中にも一人ひとりの上に覆い被さって作り出したものと言 えよう。
「PTA会長になれば、個人の思想・信条を曲げなければならないようなPTAであってはならな
いし、そうなれば、大変恐ろしいことだ」と、「一人ひとりの思想・信条の違いが認められるPTA の集まりであってほしい」とまず語った。そしてもう一つ、「私は『日の丸・君が代』に対してずっ と一貫して自分の考え方を持ってきたし、それを子どもにも話しをしてきた。世の中が変わった から十年前と反対のことを言う人間にはなりたくない。子どもたちにも世間は変わっても変わら ない一貫した姿勢で生きる大人がいることを見せてやりたい」と気がつけば一気に喋ってい た。会員からの予期していない質問であったので、私も答えを用意していたわけではなかっ た。だからストレートにしか自分の思いを喋ることが出来なかったのだが、それは回りくどい言 い方よりも、良くも悪くも率直に私の考えを伝えることになったのだと思う。特に管理職の先生 には、このストレートはモロに届いたようだ。「あの言葉には唸りました」とは後で、私の「君が 代」着席を巡って話しをする時の第一声であった。
しかしこの日の総会から、卒業式、入学式を挟んで新年度の総会まで約50日、私自身胃の
痛い日々であったことは正直に告白しておこう。
(大人の知恵という“排除の論理”)
PTA会長の卒業式・入学式における「君が代」斉唱時・着席宣言より、学校管理職との話しも
合計5・6回は数えただろうか。心配して家を訪ねる先生もあれば、地域や保護者の声を伝え に訪ねてくる人と、いろんな意見を聞かせてもらった。
学校管理職の主張は、「卒業式・入学式の主催者として、“困ります” 」ということと「一保護
者としてはそれで結構だが、会長としてはいかがなものか」というものにつきる。学校としても任 意のPTA組織の会長にに対して何ら強制は出来るものではないことは十分承知で強く言えな いジレンマもあったであろう。「日の丸・君が代を巡ってPTA会長とこういう話しをするのは初め て」との事であった。
話し合いの中で一つだけこう言ったことがある。「私が座ることで学校に実害があれば考えま
すよ」と。私のその言葉を予想していなかったのか、一寸戸惑ったような表情の後、校長から 「子どもたちが戸惑います」との返事が返ってきた。私はすかさず、「色んな考えがあることを教 えてもらうのが学校の授業のはずです。そうなるようお願いします。戸惑うのはその意味では 決して悪いことではないはずです」と切り返した。他に実害は聞いても他にはないという返事。 後で色々聞きあわせて見ると、学校の先生に対しては、「先生が卒業式等に坐ると、本人の処 分だけではなく、学校全体が厳しくチェックを受けるようになる」との脅かしともお願いともつか ぬ言葉で説得するのが一般的とか。もちろんそれだけではなく、管理職としての評価に関わっ ていることも言うまでもない。私が「実害があれば?」と聞いたのは言うまでもなく「人事と金」に ついてである。もちろん、「“人事と金”の実害があります」と管理職が言うわけもなく、もし万一 あるならばその時取るべき首はもっと別であることはいうまでもない。
またメッセンジャーだといって私を訪れた者の言葉はこうだった。
「卒業式には、PTA会長は休むかと思った。入学式は何とか都合がつかんということ で欠
席にならんか」
「せめて立つだけは立って、歌わんということで何とかならんか」
「国歌斉唱の時は、外にいるとか、保護者の席で座るとかはどうか」
私はこう答えた。「少数の違う考えを持つものは、その場を遠慮してくれというのは、明確な
“排除の思想”だと思う。私はPTAがそうした組織であってほしくないし、そんな姿を子どもたち には決してみせたくない」と。そして、「私はいつでも、誰とでも話しをするから、メッセンジャーを 使うのでなく、直接私に話しをするよう是非伝えてほしい」と。
(真剣な論議はわが身のリスクが生み出すもの)
「PTA会長、“日の丸・君が代”の問題は、これからPTAの課題として考えていけばいいん
で。それは、“君が代”斉唱に起立してからでも出来るのではないか」と管理職から提案を受け たこともある。しかし言下に、「それはウソになりますよ」と私は否定した。一応従っておいて、 「それが良いか悪いか考える」というのは一見ルールに則っているようたが、それは多数者の ルールだ。極論すれば、「戦争で銃をもって人にむけておいて、いいか悪いか後で考える」とい うようなものである。それは飛躍しすぎという人もいるかもしれないが、論理的には全く一連の もの。つくづく「個の尊厳」を国家に認めさせということが如何に大きなことか、今の憲法・教育 基本法の大切さを改めて思う。
私が卒業式・入学式の「君が代」斉唱時に坐ったからこそ、PTAでもまた地域でも論議が起
きたことは言うまでもない。一応「君が代」斉唱時に立っておいて、後で「さあみんなで考えまし ょう」なんて言っても、渦の抜けたビールのようなもので、誰も真剣に考えはしない。
私の所に持って来る意見の中には、「臨時総会を開いて、場合によってはリコールという意
見が出ないこともない」というものもあった。「リコールけっこう、やれるものならやってみろ!」と いう気持ちが起こらなかったといえばウソになる。「一端会長を承認したわけだから、リコール の原因は「君が代」斉唱の着席以外に原因はない、それを世論に訴えるか」とも思った。でも それはスッキリはするかもしれないが、広がりを作るという意味では決していい方法ではない。 但し、最悪の場合は、それも仕方がないかと思った次第である。
権力も金も握っていない少数者の武器は何か、それは「正しさ」しかない。しかし「正しさ」が
相手に届くためには、「正しさ」は「願い」を何とか広げたいという所にまで深まらなくては、壁を 作るだけにもなってしまうことも経験してきた。短気を押さえ、弱気を奮い立たせて、あくまでも 「あるべき姿」を粘り強く言い続けて行くことこそが唯一の武器であり、方法であることを改めて 思った次第である。
ただそうはいっても、直接賛同してくれる声が会合の中で出ないということは確かにしんど
い。個々には、賛同してもらえても、全体の中で声を挙げるとなると別である。2004年度の卒業 式の時に坐ったのは、PTA会長の私と、保護者として出席した私の妻、そしてもう一人老人会 の会長さんが、私の一人措いて右隣りで、スッと坐られる姿が目に入った。“百万の味方をえ たような”とはこのことを言うのだと思う。卒業式の数日後、今度の入学式について色々な意見 が伝わってくる中、自分の置かれている状況や思いを電話した。三十分も話しをしたろうか、 「小武さん、今退いたらダメよ」という一言は私にとって大変有り難いものだった。信念は揺る がないと思いながらも、悶々とする私の背中をドンと押してもらった一言だった。
かつて学生運動が華やかなりし時、「各個に立って、別に撃つ」というスローガンがあったこと
を読んだが、それに「君が代」斉唱への意志表示をなぞらえるなら、「各個に坐って、共に撃 つ」ということにでもなろうかか、入学式でも二人だけ堂々と座っていたことはいうまでもない。
(マニュアルは小学校まで届いていた)
今年3月1日の毎日新聞は、「(広島県)県教委の日の丸・君が代マニュアル」「駆け寄り『起
立を』校長室に呼び確認」というリードで5段の記事をのせている。さっそくそのマニュアルなる ものを入手し読んでみた。誰がこんなことを考えるのかと思うほど、A4版で8枚ピッチリと校長 への指示が事細かく書いてある。これを見ただけで、「卒業式」を管理・統制の手段としていこ うとする県の方針が明白である。「職務命令の出し方・回数」「職員会議での発言の仕方」「特 別指導の教頭の立ち会い」「役割分担の指定・位置」「記録の取り方」「式場の点検・当日の手 順」「国歌斉唱時の対応」等々、微に入り細に入りとはまさにこの事であろう。「国歌斉唱時の 対応」の七行だけ参考に引用する。
@校長(又は教頭)は「国歌斉唱」の号令で教職員が起立したかどうか、誰がどの位置 で
起立していないか、かねての1の(5)で申し合わせた方法で確認すること。
Aその際、起立していない職員に対しては、校長(又は教頭)が、その場に駆け寄るな ど
して、「起立してください」と周囲の者にも聞こえる程度の声で、発言すること。
(校長又はその委任を受けた者が、重ねて職務命令を発したことになる)
B起立していない者が多数いれば、児童生徒に対しても、司会が校長の指示により「児
童生徒、起立して下さい」との指示を行うこと。
これを保護者に公開すれば、いかに無茶苦茶な締め付けが行われているかを知らせること
にはなるなと思ったのだが、校長の資料であるからそれはしなかった。
4月13日付けの朝日新聞に、「広島県教委『君が代』声量も調査」という見出しで、8段記事で
掲載された。
「県教委によると、通知文書は1月、県立高校や公立小中学校など千校の校長に出した。
文章は『国旗・国歌実施状況」「教職員への対応記録」の報告書を求め、遅くとも式後
一週間以内の提出を指示している。実施状況の報告では、「君が代」の斉唱について、「式
場内に響き渡る声であった」「響き渡るとはいえないが、歌声は十分聞こえた」「歌 っていると はいえない歌声であった」の三つから選択。不起立の教職員や児童・生徒の 概数も記入す る。含む状況の報告では、従わなかった教職員名を書き、現認方法、事前 の個別指導の内 容などを記す。対応記録の報告では、従わなかった教職員への対応を時 系列で詳細に記 し、式の進行要領や教職員の役割分担表を添付するよう求めている。」
わが小学校はどう報告されたのだろうか?、気になるところではある。後日この新聞記事
は、学校現場の状況を共有化する資料ということで2005年度のPTA総会で会員に配布した。 三次・庄原というエリアの中でも、小学校の生徒が1名、卒業式で不起立を貫いたということを 聞いたが、その子はどのように学校は県教委へ報告したのだろうか。
(言うことと、行うこと)
新年度のPTA総会に新聞記事とは別にもう一枚、資料としてA4の紙を一枚配布した。内容
は2005年3月24日の卒業式と4月6日の入学式におけるPTA会長の挨拶である。「日の丸・君 が代」の強制に直接触れたものではない。しかし、PTA会長の私が「君が代」斉唱時に着席し た姿を見ながら、後に述べる来賓祝辞であるから、言わんとする願いは伝わったのではない かと思う。何人かの先生からも保護者からも、「いい挨拶だった」
との言葉をもらった。最初の枕の部分を省いてここに掲載してみる。
卒業式お祝いの言葉
卒業生の皆さんは、6年前、ピカピカの1年生として入学してから6年間がたちました。私は
今、こうして卒業する皆さんの姿をみて、ますますピッカピカにかがやいているように思います。
今日7人のみんなが卒業していきます。それぞれ、一人ひとり、性格も好きなことも、違うで
しょう考えることも決して同じではないと思います。こだわりも一人一人べつべつです。だからピ ッカピカにかがやいているんです。
6年間のあいだ、決して仲のよいときばかりでなくけんかもあったかもしれません。でもそんな
中でも自分であることを失わない、自分の輝きがますます増した姿が今のみなさんです。これ からもその輝きが失われないように願わずにはおれません。
よく「あの人は今光り輝いている」といいますが、それは何色でしょう。光りの色は一見、金色
のようにみえますが、それはさまざまな色が自分の色を失わず、かさなりあっているからです。
雨上がりにかかる虹を見れば、金いろの光りは、七色の光りがその中にあることがわかりま
す。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と。今日卒業する7人の皆さん一人ひとりは、決して同じ色ではあ
りません。虹のように一人一人自分の色はちがうのです。みんなが自分の色を失うことなく、
一緒になるとき、より光りは輝きを増すのだと思います。
みんな赤に染まりなさい、みんな黄色になりなさいということでは、誰も光り輝きません。同じ
色になれと絵の具をまぜればまぜるほど、段々灰色になっていきます。私たち大人も、皆さん に光り輝く人に育ってもらえる地域・社会となるように頑張りたいと思っています。
2005年3月24 PTA会長 小武正教
入学式お祝いの言葉
さて、1年生のみなさん。今ピカピカの1年生として入学してこられました。皆さんは、「チュ
ーリップ」という歌をしっていますか。「さいた、さいた チューリップの花が、ならんだ ならん
だ赤・白・黄色 どの花みてもきれいだな」。今から73年前(1932年・昭和7年)、みんなのおじ
いさやおばあさんが生まれる頃、もっと前に出来た歌です。
「どの花みても きれいだな」というためには、赤いチューリップは赤くさくんだよ。白いチュー
リップは白く咲くんだよ。黄色いチューリップは黄色くさくんだよ。それが「本当にピカピカ輝き
つづけていきることだよ」と、この歌は教えてくれています。「黄色いチューリップも白いチュ
ーリップも 赤く咲きなさい」ということになれば、黄色いチューリップや白いチューリップのいの
ちは死んでしまいます。
今日新入生の8人のみなさんも、顔も違えば、好きなことも違うでしょう。みんな違ってみん
なピカピカ輝いています。これからこの小学校で新入生の皆さんは、おにいさん、おねえさんと 一緒に、赤いチューリップは赤く咲くように、黄色いチューリップは黄色く咲くように、白いチュー リップは白く咲くように、グングンと伸びてほしいと思います。
チューリップの歌が出来た73年前は、日本はそのころから隣の中国という国へ戦争をしは
じめていた時でした。そしてみんな同じ色になりなさいという時代でした。だから、自分の色に輝 きたいという願いから歌ができたのだと思います。でも、今は違います。私たちおとなもも、み なさんが自分の色で輝けるよう、そんな大切なことがなくならないように頑張りたいと思います。
2005年4月6 PTA会長 小武正教
もし万が一、私が「君が代」斉唱の時、立ったなら私は卒業式にも入学式にもこの「お祝い」
の言葉は子どもたちには言えなかった。この言葉を言うために頑張ったとも言えるかもしれな い。競争と管理にさらされる今の世の中だからこそ、「オンリーワン・天下一品」を言葉だけでな く、生き方をかけて伝えたいと思う。
(おわりに−いのちを伝える鮭のごとく)
今年の卒業式・入学式で着席した先生の「処分」が東京都や広島県発表され、同時に「処分
撤回」を求める行動が起こされたことを知らされた。4月17日には広島市内で「日の丸・君が代 の強制に反対する集会」に、広島県内で「君が代」斉唱時に着席した11人の先生の報告を会 場で聞かせてもらった。着席の様子を淡々と明るく語られるまでには、どんなにか苦しい思い をくぐり抜けられたに違いない、心から敬意を払いたい。人事と権限を乱用する教育委員会の 下にないPTAのような任意の会においてさえ、会長の着席を巡って議論がまき起こるのだか ら、先生においてはどれほどかと想像した。
しかし事は深刻である。ある意味たかが「君が代」斉唱時の着席だが、「それはきまったこと
だから」と誰も反対の声をあげ、行動に移すものがいなくなった時、憲法改悪をまたずしてまさ に日本のファシズムは9割方完成したといえる。物言わぬ群れの一員になることが大人の知 恵だとは決して子どもたちに伝えたくはない。しかし、そうでない願いを伝えようとするならば、 今わが身を晒すしかないのも事実である。
今年3月5日の土曜日、お寺の子ども会でお寺の前を流れる西城川に鮭の稚魚を放流し
た。鮭は約100キロ川を下り、日本海で4年過ごし、また元の川に帰ってくるという。川の臭いを 覚えているらしいというが不思議なものである。すでに下流で放流された稚魚が大きく育って傷 だらけになりながら、産卵・受精のために遡上してきている。
いのちがけで次の世代に「いのち(願い)」を伝えようと遡上してくる鮭の姿から、私自身に強
く訴えかけるものを感じないではいられなかった。
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