「国に“魂” まで奪われ屍にならないために」 −学区自由化を問う中で見えてきたもの
学力テストの公開を憂う会代表 小武正教
◇二00五年度からの一方的な学区自由化の実施
二00五年度から合併した三次市内のどの中学校へも自由に選択して行くことが出来るとい
ういわゆる「学区自由化」がはじまる。二00三年度に三次市独自に小学校二年生から中学校 三年生までを対象にした学力テストの平均点を市広報に掲載することに続く第二段である。二 00四年四月に再選を果たした市長の前からの公約は「十年で学力日本一の市に!」というも の。但し市長のいうこの場合の「学力」とは、「子どもたちの学ぶ力」という本来の意味ではな く、「テストの点数」という意味であることはいうまでもない。「学区の自由化」ということが保護者 である私の耳に伝わってきたのは二00四年七月のことであった。「学区自由化についての紙 が教育委員会から配られようとしたが、何の説明もなしに配布するのはおかしいという市会議 員の反対でストップしている」というものであった。小学校六年生の子どもを持つ親として、小さ な三次市とはいえ、通学区の自由化が何を意図して行われ、どんな影響が出てくるのかは決 して他人事ではすませられない問題であることはいうまでもない。
◇学区自由化の先行例
学区自由化はすでに「心の教育改革」を掲げる東京都など先行して行っている都道府県もあ
り、その問題は雑誌やテレビですでに報道されている。東京の実態として、自分の中学校に生 徒を募集するために、クラブ活動の全国大会出場をアピールしたり、“ (有名進学)高校への 合格者数”までアピールする中学校の校長先生の影像がテレビに流れたことは強烈な印象と して残っている。まさに“公立学校の私立化”である。
来年度から同じく中学校区の自由化をはじめる広島市では、生徒の応募の偏りがかなり出
ていることが中国新聞などで大きく報じられた。広島市では中学校が説明会を開いたところが あるが、「「風評が基準に」 懸念の声」というリードのもと「分かりづらい各校特徴」という記事 (九月二十一日記事)、さらに「六校が人数枠超過。希望者ゼロの六校を含め」二十一校が五 人以下」(十月二十二日記事)というショッキングな内容が報じられた。
◇「保護者・生徒の要望」を口実にして
三次市の学区自由化の紙は九月末にA3版裏表の紙一枚を小学校から子どもが持ち帰っ
た。
十一月一日に市教委に私の「申入書」を提出した際、「保護者は何の説明の説明も受けてい
ない」と抗議をすると、「市広報でも掲載しているし、夏の市政報告会でも説明している」という 返答。「子どもや保護者に関わる何十年と続いてきた制度を紙一枚出して説明したといい、聞 きたかったら出向いてこい」というのが、「市民がお客さま」を掲げる市行政の正体かと残念に 思ったことである。教育委員会は「申し出があれば学校に出向きます」ということだったので、 私がPTAの会長をしている小学校では六年生の保護者にはかり、「説明会をしてもらおう」とい うことになり、後日説明会を開催してもらった。配布用紙には「要望があれば説明会に行く」と はどこにも書いてないし、殆どの保護者にはそのことすら伝えられていないのが実状である。 私の学校説明会には教育長に来て貰うよう交渉したが、教育長は諸用ということで担当課長 になった。学力テストの公開への抗議には教育長が対応していたが、合併して新市になると、 こうしたたぐいの申し出には教育長は出てこなくなった。「交渉は担当の課長がやらしてもらい ます」という方針で、「市民の声を聞かせて下さい」と看板をあげながら、「反対する者には会い ません」という市長の姿勢を教育長も見習っうようになったらしい。
学校で開催した説明会に参加した保護者の共通の思いは、「説明不足の中での実施」という
ことにつきる。あたかも「あなたたちは知る必要がない」とでもいうように情報を与えないように して物事が決定され進められていく。まさに権力を握った者によって、民主的に(最低限の手 続きで)民主主義が放棄させられている。
配布されたプリントにはなぜ学区自由化を行うのかという説明は唯一こう書いてある。「保護
者・児童生徒の多用なニーズに応えるとともに、選択される学校をめざした特色ある学校づく り、開かれた学校づくりを促進し、学校の活性化をはかります」と。「保護者・生徒の多用なニ ーズ」と書いてある以上は、「学区を自由化してほしい」という要望が保護者や生徒から多く出 されていたのだろう誰もが思う。「どんだけ、どんな要望があったのですか?」と聞いても、返っ てくるのは、「やりたいクラブ活動がある学校に行きたい」という要望が数件毎年あったという 答えが返ってくるだけである。実は今までもその子どもたちは「特例措置」で希望の学校に通っ ているし、また学校内での“いじめ” 等によって学校を変わるということも申し出で行われてい て学区を自由化をする理由にはならない。本音は市長が市政報告会で語った、「これからは教 育基本法も変わるしまさに学校も競争の時代だ」というところにある。時代を強調して「勝ち組」 になれとばかりに競争を煽り立てるのである。しかしそうはさすがに「学区自由化」を説明する 文章にはかけないから「保護者・生徒の多用なニーズ」という口実を作って、行政のトップが煽 るということになったのが本当のところである。
「学区自由化」の紙は配られたが、しかし、広島市などとは違い、三次市での今までの学区と
別な中学校への申し出は十二月十五日の締め切りがすぎて十二人に止まった。でも、今後は 三次市でも、学区自由化によって町内二つ中学校の一方に極端に入学者が偏った広島県内 K町のように「風評」によってどのように影響されるかわからないものを抱えていることも間違い ない。
◇思考停止の教育委員会・先生
二00四年七月、中国新聞に「職員に包丁 中三逮捕 三次の中学校 教室で注意され」とい
う記事が掲載された。「何があったのか」と読んでみると「家庭科の調理実習中に、同級生へ のいたずらを男性職員に注意されたことに腹を立て、職員の首に包丁を突きつけて脅した疑 い。包丁は調理室の備品だった」とある。「エッなぜ逮捕」と正直真っ先に思った。そしてその 後、中学校が地域全体に配布しているチラシに、「何回以上遅刻をしたらこうなります」「ヘルメ ットを付着用何回でこうにります」という内容の事が印刷されていた。一つの項目に「改善がみ られない場合は関係機関と連携をとりあって取り組みます」とある。だから通報したということ のようだ。後日直接その学校の先生から、何回目ですから警察に通報しました。通報しないと 義務を怠ったことになりますからと説明を聞いた。
その次にその中学校から地域に回ってきたプリントには学校で「トイレ掃除をしよう」というも
のだった。何でも「心を磨いて感謝の心を芽生えさせる等」と書いてある。そしてもう一種類、 「平成16年度『基礎・基本』定着度調査 ○○中学校の結果と改善方法について(公表)」という もので「国語・数学・英語」の県内・三次市と同時に学校の平均点と今後の指導点などが記載 してあった。学区内地域の全家庭にこうしたものを配布することが開かれた学校なのかと疑問 を持つ。みんなが暖かくはげますことになるのか、厳しい監視の眼になるのか、そこでは建前 論は別にして現実を見なければならないことが大切とだけは言いたい。一方で競争を煽り、一 方では管理を強化し、トドメにに“感謝”こそ大切という道徳で押さえ込むといっては言い過ぎだ ろか。
市長が施政方針演説で語る「時代がかわった、教育基本法も変わる、学校も競争の時代だ」
と開き直って本音で言う言葉と、教育委員会の職員が、「けっして学校間のランクずけになるよ うなことはしません」「“風評があってはならないことです」と一生懸命弁明する言葉の計り知れ ない落差。委員会の職員の姿はある意味痛々しく、「この人に何を言ってもなぁー」という思い をいだかせる。市長の発言の尻拭いを、今まで同和対策の部署で、良心的に活動してきた職 員に敢えて担わせ、忠誠度をはかるかのように試すかのごときやり方は卑劣きわまりない。 「本当は自分の腹をぶちまけてというわけには・・・」と言った一言にその無念さが凝縮されてい る。しかし、教育行政がそんな選別・排除で服従をせまるやり方ですすんでいるわけだから、そ こから出されてくる政策もまた子どもたちへ、差別・選別・抑圧を再生産していくことはいうまで もない。自分たちの進めている教育行政に対して、“感謝”や“奉仕”の言葉の部分で正当化し てほしくない。それは競争主義との裏表であるだけでなく、子どもたちの心の管理の手段にす ぎないのだから。
昨年十一月一日に学区自由化について「申入書」を教育委員会に持っていった時のことであ
る。話しが中学校から配布した「トイレ掃除」ことに及んだ。私の疑問に、 「「感謝」や「奉仕」の 大切さを教えることは決して悪いことではないでしょう」とは教育委員会の言葉だった。私は本 気で心配した。「この人たちは大丈夫じゃないと、思考停止していると」。そして前総理大臣の 森喜朗が、「教育勅語」にも『父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ云々』とよいとこがある」と言 った言葉を思いおこした。『教育勅語』は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運 ヲ扶翼スヘシ」のためてではなかったか。“感謝”や“
奉仕”が今何のためにいわれているのか、「国」のための「国民」を作ることが見えなくなってい
ると。
私の仏道の師からあるときこんな言葉を教えられた。「外道の相善」という言葉である。「外道
の相善」とは「善」をかかげるが故に人を惑わし、人を「屍」にする教えとでもいおうか。「外道の 相善 堕落より恐ろしいのは 精進なのです 精進に忍び込む驕慢は 外道の自覚を蔽い、人 を屍にするのです」と。「国家の統治政策としての教育」を「外道の相善」と読み替え、「感謝。・ 奉仕」の「道徳教育」を「精進」と、そして思考停止を「屍」と読替えれば、まさに今を言い当てた 言葉になる。
小学校の前にたてている掲示板の二月の言葉はこれできまりである。
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