「心のノート」で目論まれている情操とは
             −政府のマインドコントロール・洗脳を斬る
            小武正教

◇はじめに
  先日、学区自由化について質問書を持って市の教育委員会を訪ねた時、話しが今中学校で
すすめられている奉仕活動の事になりました。「「感謝」や「奉仕」の大切さを教えることは決し
て悪いことではないでしょう」とは教育委員会の方の言葉でした。生徒たちに教師からの一方
的な押しつけで、生徒からの意見が反映されない中で行わせる活動によって、「奉仕」や「感
謝」の気持ちが育つと本気で考えていることを知り唖然としたことです。強制が行われる所に
は、それが無意識であれ必ず排除する者を生みだします。その強制される内容が、みんなか
ら「善いこと」と思われていればいるほど、受け入れない者、そこからはみ出した者には仲間で
はないとのレッテルがはられていきます。  
 今学校では、出来る子、出来ない子を早く選別し、国の掛ける費用の効果を上げて国家統
治のために教育を利用するという政策が、国の求める人間像というものを『心のノート』という
形で具体化し、道徳教育として今実施されています。教育現場では“人を平気で選別し差別し
ながら、同じ人が「人を大切に」という道徳を語るという笑えない悲劇が今現実のものとなって
います。なぜその矛盾に気づかないのでしょうか。学校もまさに社会の縮図、先生も生徒も国
の進める「競争・選別」と「管理強化」のただ中に置かれています。
 「国がその政策を進めている」という意識が今、自己の思考停止を行わせ、「善い」として強
制されることの真の目論見を見抜く眼を曇らせているのではないかと思います。

◇『心のノート』の位置づけ
  二00二年の春、文部科学省は全国すべての小中学生を対象として『心のノート』を道徳の教
材として配布しました。小学生は一・二年生用、三・四年生用、五・六年生の三種類、中学生は
一種類の全部で四冊あります。『心のノート』は検定を受けた教科書でもなく、また副読本でも
ありませんが、文部科学省は各学校での活用を義務づけており、実質のところ「国定教科書」
といえるものです。そして、教員向けの『心のノート活用のために』には「全教科を貫くものとし
ての道徳」とされています。 従って『心のノート』の活用ということは、学校の教育全体が道徳
教育化していくということを意味しています。もちろん道徳の内容は国が決めた『心のノート』と
いう「国定教科書」以外にはないわけです。
 広島県では『心のノート』を使うよう教育委員会が強力に指導し、学校で使用したかどうかチ
ェックがなされています。その上、子どもたちに家庭に持って帰らせると無くして、教育委員会
が視察に来た時に「教科書を持っていない」と問題となるため、家庭に持って帰らせず、学校で
保管するという状況も生まれています。

◇『心のノート』の構成
 9年間の義務教育課程を通して活用する『心のノート』はその内容を見ると、4冊全体がそれ
ぞれ4つの段階に分けて順に学んでいくようになっています。その『活用の手引き』(文部科学
省作成)を見ますと、
 @「主として自分自身に関すること」。
 A「主として他の人とのかかわりに関すること」。
 B「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」。
 C「主として集団や社会とのかかわりに関すること」。
 その構成は「自己」から「他者」へ、そして「自然」を介して「社会」から「国」へと考えていく構成
になっています。「心のノート」は一見自由を尊重してそれぞれの考えを書き込む手法がとられ
ています。しかし、その「問い」は明らかに、闇に「正しい答え」を指示したしたものであるといえ
ます。そこには「礼儀正しい、素直な、感謝の気持ちを持った、世の中の役に立つ人に」と、 大
人が考えるまさに「良い子」像に到達するように作られています。
 「ありがとうをさがそう?」(1.2年生用)、「今のくらしをつくってくれた お年寄りたち わたし
の「ありがとう」」(3.4年生用)、「ありがとうっていえますか?」(5.6.年生用)と、「感謝」が前
面に押し出されますが、「何に」「なぜ」感謝するのかという中味の検討はありません。「感謝」
の言葉で、一人ひとりの批判精神を封じ込める仕組みになっています。
「自分をまるごとすきになる」(中学生用)という標語のようなタイトルもまさにそうです。個別の
状況への取り組みを抜きにこうした言葉を標語のように掲げようとするのは、今ある状況を丸
ごと受け入れていく訓練でもあり、まさに自主性を尊重しているように見せかけたマインドコント
ロールというべきものです。
 でも多くの子どもたちは学校の差別・選別と管理強化の現実の中で、自分を丸ごと肯定でき
るはずもありません。この教育のありかたは「良い子」を演じる事を強いられた子どもたちの苦
しみや葛藤をますます大きくすることになると心配せざるをえません。
  
◇「宗教的情操教育は道徳教育で」―教育基 本法「改正」の流れの中で
  二00三年三月二十日、中央教育審議会の答申が出されました。「愛国心」「伝統文化の尊
重」が前面に打ち出されたのとは対照的に、宗教教育に関して、「宗教的情操」教育は盛り込
まれませんでした。答申の中で「宗教的情操の教育は、道徳教育で一層充実させるべき」とし
ています。この道徳教育こそすでに使われている『心のノート』の内容にほかなりません。
  答申に言う宗教的情操教育というのは、そのベースとなっているものは間違いなく戦前の国
家神道です。「教育勅語」に表される「現人神としての天皇への臣民としての絶対帰依の感情」
こそが宗教的情操の正体です。戦後も一貫して「宗教的情操」教育の復活を求めてきた人た
ちは、早くから政府・文部省と一体となって「宗教的情操の涵養」という名目での教育を求めて
きました。それは「畏敬の念」という言葉に変えて、国の期待される人間像の中に取り入れよう
としてきたものです。

◇宗教的情操と国家
 国家は常に、社会体制の矛盾を粉塗する思想を国家統治のために民衆に教化してきまし
た。江戸幕藩体制下の忠孝の儒教思想、それをさらに補強した「悪しき業論」がそうです。本
願寺教団のように近年まで浄土真宗の信仰の厚い人を「妙好人」と言って「理想とする人間
像」としてきましたが、まさに「妙好人」は、権力に対しては「実直」で「従順」でもありました。「王
法為本」と言ってこの世のことは「仏法」より「王法」を遵守するということを仏法の名の下に教
化するわけですから、教団の掲げる「宗教的理想の人間像」が権力者の作った社会を丸ごと
受け入れていく姿となったのも当然の結果といえます。
 また明治に至っては、宗教的情操の中心は「教育勅語」(一八九O年)であり、それは最後に
は「国体の本義」(一九三七年)にまで行きつきます。
  「忠は天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随 順する道である。絶対随順は、我を捨て私 を去
  り、ひたすら天皇に奉仕することであ る。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の 
  生きる道であり、あらゆる力の源泉 である。されば、天皇の御ために身命を捧げること 
  は、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民 としての真  
  生命を発揚する所以である。天 皇と臣民との関係は、固より権力服従の人為的関係で 
  はなく、また封建道徳に於ける 主従の関係の如きものでもない。それは分を通じて本源 
  に立ち、分を全うして本源を顕すのである」

 「我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあって、他国には見られな 
 い美しい自然をなしている。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのもの
 であって、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が
 生まれ、人と自然との和が成り立つ」 (『国体の本義』)

「国体の本義」では、自然と現人神天皇を重ねてあわせて、“おおいなるもの”とし畏れ敬い、そ
こに「身命をささげつくす」ことが「分」をまっとうする道という教育を徹底していきました。

◇『心のノート』と「宗教的情操」・「畏敬の念」
 『心のノート』の構成は、「@,自己」や「A,他者」と「C,集団・社会(国)」を繋ぐものとして
「B.自然や崇高なもの」がはさみ込まれていることは見逃すことは出来ません。集団や社会、
そして国を社会科学的に見ていくのではなく、「自然なもの」「崇高なもの」としてすり込んでいく
意図がそこにあります。「社会」や「国」を「自然なもの」として位置づければ、矛盾が存在し不
条理がそこでおこなわれても、「変えることのできない「自然なもの」」という意識へスライドされ
れば、「変えていこう」という意識が生み出されません。さらには、「しかたのないこと」という思
いを生み、そして「当然なこと」という意識を植え付けるのです。
 さらには『心のノート』は「「全体の中の個」という「個」の位置づけを強調しています。中学校
編の「オーケストラの絵」が、「全体の中で「分」を果たす」という考えをいみじくも象徴していま
す。その全体を問う視点や、参加の選択枝がないなかでの「和」や「分」の強調は、ついには、
「個」を殺していく、「滅私奉公」に行きつくことは、戦前の歴史を見れば明らかで
す。                                       
  戦前は国家に個を吸い取っていく役割を「宗教以上の国民道徳」として位置づけた国家神道
が占めていました。戦後再び個人を国家の為に利用する国家主義を目論む人たちは、教育に
対してもその時々の中央教育審議会答申などで着々と手を打ってきており、「宗教的情操」に
ついては『心のノート』が彼らの現在の到達点です。本音のところでは、読売や産経が主張して
きたように、「改正」する教育基本法に、「宗教的情操教育」を前面に打ち出したいのは山々で
しょうが、「政教分離」という憲法のハードルの高さや、与党を構成している自民党と公明党の
主張の違いなとから、現時点では文言としての「宗教的情操」教育は見送って、中教審答申の
「道徳教育として徹底する」として、まず既成事実として先行させ、後は憲法「改正」後に全面的
打ち出すしていくという考えと思われます。

◇宗教的情操と信教の自由
  宗教は多くの場合、神とか仏という「人間の力を超えた」ものをたてます。しかし、大切なこと
はそれは決して国や他者に強制されるべきものであってはならないということです。それが「信
教の自由」であることはいうまでもありません。しかし、「自然」や「生命」への「感謝の念」「畏敬
の念」は、それが一般には宗教の領域ではなく道徳として受け止められたとしても、国や他者
に強制されていいわけではありません。一人ひとりには「思想・信条の自由」が保障されなけれ
ばならず、今では子どもにも子どもの「思想・信条の自由」を認め、それを表明する権利がある
ことが「子どもの権利条約」によって謳われています。

◇二つの宗教的情操
 宗教的情操といっても、社会体制を補完していく内容としての「宗教的情操」は、仏教的情操
と言おうが、キリスト教的情操といおうが、神道的情操と言おうが、缶詰のラベルが違うだけ
で、中味はみな同じだといってもいいでしょう。いわば体制補完の「権力服従の情操」を育てて
いくわけです。それらを一言で言うなら、「護国宗教」と括ることができると思います。真宗教団
に限らず、多くの宗教教団の歴史は、個別の「教え」を掲げながらも、その中味は「護国宗教」
に転落してきましたし、しかも今も十分に脱し切れずにいます。
 しかし、数は少なくとも、不条理の現実の中を教えに生きることで、「護国宗教」を相対化して
きた一つの伝統もあります。その相対化の仕方に、「神の下での平等」というキリスト教、「すべ
ての人間が等しく仏になる」という仏教と、個別の宗教的情操が培われ、伝承されてきたわけ
です。浄土真宗でいうならば、一向一揆を生みだしたものでもありますし、封建身分制度の中
での被差別部落の身分解放の動きにつながる信仰の姿にも見ることができます。近代絶対天
皇制下においては国家統制が厳しくなり、ますます「護国宗教・仏教」の面が圧倒的となり、弾
圧を受ける者はほんの僅かとなりましたが、そこに護国仏教とは別の宗教的情操が受け継が
れていたのです。
 浄土真宗の「日の良し悪しをいわない」という「門徒物忌みせず」という習慣や、「神祈不拝」と
いう伝統も、十分とはいえないまでも、「護国宗教」としての宗教的情操とは異質な宗教的情操
の一端をその中で保持してきたともいえるだろうと思います。

◇学校現場で先取りしてすすめられている実態
  教育基本法の「改正」が何を目的に行おうと進められているか、三浦朱門・教育過程審議会
前会長の言葉は明確に物語っています。
「できん者はできんままでけっこう。戦後五 十年、落ちこぼれの底辺を上げることばか りに
注いできた労力を、これからは出来る 者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でい
い、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精
神だけを養ってお いてもらえばいいんです」。
 産業構造の改革という名の下で、新ダーウィニズムという剥き出しの弱肉強食という波が、教
育基本法の「改正」に先だってすでに教育の現場にも露骨に取り入れられています。
 教育にかける費用の効果を考えて、子どもたちを出来るだけ早く、国の人材となりうるかどう
か選別していくシステムを自由選択の名の下に押し進めています。資本をかけて中高一貫教
育校を作りエリート養成校とする反面、その他の学校をランクづけし、義務教育も学区自由化・
学力テストの情報公開という競争主義の手法を導入してふるいをかけるというものです。
 子どもたちの側からすれば、入る学校で(それはすでにどの小学校に入るかで)今まで以上
に将来が決定されるようになるというわけです。現場では、「個性ある・特色のある学校」とか
が謳い文句になっていますが、皆一皮むけば、「生き残りたかったら勝ち残りなさい」という本
音のメッセージがチラチラと正体を見せながら発信されています。

◇おわりに
―国が行う教育に対して一切の 批判を許さないため、教育基本法「改正」
  二00三年に出された中央教育審議会答申は、現行教育基本法の「個の尊厳」から、「愛国
心」「伝統文化」を前面に打ち出して、教育の中心を「個」から「公(国家)」へ移し、国家のため
の人材育成という国家統治政策のための教育へと内容を大きく変えていくものです。
 そのことを最もよく示すのが答申に現行・教育基本法第十条「教育は、不当な支配に服する
ことなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」という項目を、04年
6月の与党の中間報告では、「教育行政は不当な支配に服することなく・・・・」と変えようという
ものです。現行では「教育は国家の不当な介入を許すことなく」という言う内容ですが、それ
が、「教育行政」となれば、「教師や保護者、市民などからの要求を受け入れることなく」となり、
国や行政がしたい放題の教育を行うということになります。まさに国家主義の教育を押し進め
ようと言う意図が露骨に表れたところであり、「改正」されれば、個人の尊厳を補償した憲法
「改正」の先取りともなることは間違いありません。
 まさにその地均しとしで、先取りとして行われているのが、二00二年から学校で使われてい
る「心のノート」による道徳教育といってもいいと思います。

*この原稿をもとに、備後・靖国問題を考える念仏者の会からA5版.8頁の配布用チラシを作
りまし た。希望者には実費1部10円プラス送料でお分けします。
 728-0003 三次市東河内町237 西善寺内  備後・靖念会事務局
      (TEL/FAX 0824-63-8042 odake@orange.ocn.ne.jp)




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