「教学伝道研究センター 教育基本法改正 調査経過報告」
を読んで

                      文責   小武正教
 
  かねてから要望していた「教育基本法『改正』」を議論するための資料が12月3日付けの日付
が入ったものが教区にとどけられた。最初の資料送付は2004年2月17日付で総局公室次長名
で送られてきたA430頁ばかりのものであったが、全日仏が教育基本法の「改正」を要望して
出した資料であり、一方的な資料であるとして、教団に意見を求めるためには教育基本法「改
正」に反対の資料を出すことを要望していたことへの答えだともいえよう。以下何点か、本山の
対応のあり方、出されてきた資料の問題点を述べる。
 本山からはこれらの資料をもとに、2005年2月末までに教区の意見をとりまとめるようにとの
ことである。

(追加資料が出るのに9ヶ月かかったことについて)
@備後教区をはじめ全国からすでに2004年3月に「資料が一方的で不十分であるから、 議論
するための適切な資料を要望」してから9ヶ月間も、要望した資料が出されてこな かったこと
に対して対応の遅れを指摘せざるをえない。教育基本法の「改正」案が2005 年の春の国会
に提出されるということを考えればあまりに悠長な対応であり、この問題
 の重大性が捉えられていないといわざるをえない。

(追加資料の内容について)
A追加資料として出されたものは、「教学伝道研究センター 教育基本法改正 調査経過 報
告書」(A4-4頁)、「『教育基本法改正に関する議論』について」(A4-23頁)、「適切な る宗教教
育 実現のための教育基本法第九条改正に関するお願い-全日本仏教会・教育 基本法第九
条全 日本仏教会の改正試案」(A4-4頁)の三種類であった。
 今回も分析を加えない「生の資料」としては、「改正」を推進しようとする全日本仏教 会のも
の があるだけだということである。全日本仏教会の要望書にたいしても、その 所属団体であ
る大谷派が宗会で教育基本法「改正」反対の決議をしたり、また京都仏教 会が慎重審議をも
とめる実質は「改正」反対の要望書がだされたりしているがそのこと にはまったく触れられて
いないし、収集資料一覧にも載っていない。そのいみでは「分 析」としては両方の意見を紹介
しながらも、資料としては一方的なものだといわざるを えない。

(U調査済み及び調査中資料について−不十分な内容である)
B30項目の本・論文・冊子を調査分析したとあるが、とくに教育基本法第9条にかかわる 「宗
教的情操」についてその歴史的経緯を最も詳しくのべている『新教育課程と道徳教 育』(山口
和孝著)の本が欠落していたり、大谷派の反対決議、京都仏教会の反対の要 請文などの収
集がなされていないなど、教育基本法9条に関する肝心な点での資料が収 集されていないこ
とは致命的であり、そのことが、後の分析の内容に反映してしまって いる。

(『教育基本法改正に関する議論』について−分析の内容の誤りと不十分さの指摘)
C「『教育基本法改正に関する議論』について」としてA4版24頁の資料が出されてきた が、2
頁の目次の後に、教育基本法第9条に関する議論(分析では断片的論争)を最初に 18頁半、
その後に教育基本法全体にわたる議論(分析では総合的論争)を2頁半をさく という構成で分
析がなされている。
 「木を見て森を見ず」とはまさにこの分析のことではあるまいか。論の正否はともあれ、 教
育基本法がどういう主張で変えられようとしているか、その主張か゛どういう戦後の 過程を経
てきたのか、という結果として今の「改正」論議があるわけで、全体の「改正」 論議の流れの
中に教育基本法第9条の「改正」問題を位置づける視点がないといわざる を得ない。9条いう
木の分析だけを一生懸命やって、森全体がどこに動こうとしている かについてはひどく無関
心な態度にみえる。
 穿った言い方をすれば、その姿勢が、この「改正」の機に乗じて、宗教界の発言権を拡 大し
ようという下心と思われていることは肝に銘じなければならないところである。

(分析資料の選定について)
D「ニュートラル な立場から、整理・分析を行うようにつとめており」(頁3)と書か れている
が、分析の叩き台となっているのは「改正」推進をしている全日本仏教会の「適 切なる宗教教
育実現のための教育基本法第9条改正に関するお願い」の内容であり、「改 正」反対につい
ては法曹界などのみのがその都度引用されるのみで、宗教界における反
 対要請文は同じ土俵に載せられていないことは大きな欠陥といわざるを得ない。 
  
(U−1、全日本仏教会の主張−手続きに問題を称える声が無視されている)
E全日仏が2003年2月4日付で中央教育審議会答申に対し「要望書」を提出、さらには2004 
年「お願い」「改正試案」を出していると記載している。しかし、その後、大谷派など の加盟教
団や、京都仏教会の反対要請文が出たり、要請文を出した後に加盟団体の理解 を求めて回
るなど、十分な論議を経た中で進められたものでない。この文章だけであれ ば、そうしたこと
が全部削られ、あたかも全日仏とその加盟教団が一体となってすすめ ているかのように印象
ずけかねない記述となっている。

(U−3、各条項に関する問題点 〔全日仏の示す改正の目的〕−その矛盾の指摘は註
書のみ)
F「全日仏の示す改正の目的」は「モラルの低下、青少年犯罪、いのちを粗末にするとい っ
た事態について、これらが宗教教育の軽視によってもたらされた」(頁7)としなが ら、その論
証はまったくされていない。一般的にもムードで語られることはあっても論 証されたことのない
もので ある。それについて分析では註書きに「それが何によって もたらされたのかの分析
は不十分であるとの指摘も見られる」(頁7)とするのみであ る。
 「公教育に宗教教育を取り入れる必要がある」という時にもっとも大切なのがこの論証 であ
ることは言うまでもない。宗教教団はそれぞれ私立の宗門校を持っているので、そ
 うした観点からの調査はすればできないことはない状況をもっている。しかし、課題と する
問題の分析もなされず、そしてそれに対する宗教教育の 有効性の論証もまったく
 なしにムードだけで進められているとしかいいようのない「宗教教育」導入に何ら切り
 込みを持たない分析になっている。

(分析をする視点に 歴史認識の欠如がみられる)
G今回の全日仏の主張の狙いは、「宗教的情の涵養」(要望書)、「宗教的感性の涵養」(お 
願い)にあり、第9条をめぐる「改正」論議もそこが焦点である。しかしその宗教的情 操なる言
葉が明治以降の国家体制において果たした役割についてあまりに無知としか言 えない状況
が見られる。宗教的情操が戦前いかに教育勅語と一体となって絶対天皇制を 支える意識を
涵養してきたか、戦後も神社本庁や神道政治連盟など、さらにはマスコミ の産経・読売など
が、宗教的情操という名で、公の位置に置こうとしてきたかという背 景がまるで削られて、全
日仏の宗教的情操という論が抽出した形で取り利だされている。
 その最たるものが、「政治権力と宗教が結びついて人々の心を支配するのは、少なくと も前
近代においてはしばしば見られる形態であった。このような前近代的なありようが、 そのまま
現代に復活するということはないだろうが、」(頁20)という言葉である。近 代日本の明治天皇
制国家は、国家神道と国家権力が結びついたものではなかったのか。 この論でいくなら、「国
家神道は宗教以上の国民道徳」であるから、宗教が政治とむす びついたことにならないとい
うことが言われており、宗教的情操として教育勅語の枠内 で教えられた内容は、宗教とは言
わない、神道とも言わないという認識が前提となって いる。

(おわりに−すでに「改正」を年頭において準備することが述べられている)
H教育基本法「改正」が何をもたらすのかという論議をしようという時に、「このまま改
 正に進むとすれば、宗教界は、公教育における宗教教育推進への反対賛成は別として、 
宗教教育の可能性について論議を深め、準備していく必要があるように思われる」(頁 23)と
述べ、すでに「改正」を前提として、「改正」が何をもたらすのかというより、 その中にいかに参
入していくかを準備すべきだと「おわりに」で述べている姿勢は、ニ ュートラルな分析とはとて
もいえないしせいである。
 「乗り遅れまい」という姿勢より、「改正」しようとする本質を見極めるということで なければな
らないはずである。


(全体の論調について−ニュートラルな分析といいながら、全日仏の線にそったもの)
I今まで概略見てきたように、ニュートラルな分析といいながら、「分析材料」「分析す る視
点」「状況認識」「歴史認識」「まとめ」のすべてが、最終的には「改正」を進める 全日仏の進め
る線にそったものとなっている。
 果たしてこの資料をよんで、教育基本法「改正」について判断が出来るかといえば、「否」 と
言わざるをえない。
 この追加資料は、分析という形をとっている分だけよけいに第一回目の資料よりさらに、 一
つの方向に意識を引っ張っていく意図を感じる資料である。

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