「宗令」「宗告」に関して 「要請文」・成果と課題
この度の「宗令」「宗告」に関する要請

浄土真宗本願寺派総長
不二川公勝様
                          二〇〇四年八月十五日
備後靖国問題を考える念仏者の会
代表  池田静思

 私たち備後・靖国問題を考える念仏者の会は、戦後五十回会の一九九四年、真宗ネットワ
ークの活動に参加し、一、戦争遂行を宣揚した「ご消息」の失効宣言。一、聖教削除・不拝読
の撤回。一、聖徳太子などの五尊安置様式の変更。の三点を求めて署名を本山に提出してい
る。あれから十年、二00四年五月二十四日、総局は「宗門の『戦後問題』への対応について、
「宗令」(ご消息)についてと「宗告」(五尊安置と聖典削除・不拝読)を発表した。戦後六十年を
前に、「教団の戦争責任」の検証への取り組みへの芽が少し出たというのが率直な思いであ
る。この芽が育つか枯れるかが、今後の教団の「非戦」の実践活動の質と内容に深く結びつ
く。これを第一歩に教団自らがより具体的戦争責任の検証に取り組むことを求めるものであ
る。
  
 以下基本的な問題点を何点か記す。
 第一に、私たちの会には何人もの戦争体験を持つご門徒がいる。それは戦時中にお寺の本
堂で、「戦死は菩薩の行である」「天皇陛下の為に生命を捧げることが御教えに適う御報謝で
ある」等々という説教を聞き、戦争に行った体験を今も抱えて生きている人たちである。その人
にこの度の「宗令」「宗告」はどう響いただろうかか。
 「わしらは六十年、スマンデシタノーという一言を聞きたかった。しかし、宗令じゃ  あ宗告い
うのは、詫びとるんか命じとるんかわけがわからん。もうちーとシャンと  せにゃー、死にきれ
んのー」
  肝心なことは「遅くなり申し訳ありません」と門徒に本当に詫びる姿勢があるかということであ
る。誰にこの「慙愧」の思いを届けようとして出す文章かということではないか。
  次に、「戦時中のご消息を依用しない」というが、その「ご消息」の内容が具体的に検証され
ず、かつ明らかにされずに「宗令」が出されているという問題点を指摘せざるをえない。また当
事者である前門主みずからが行った「宗令」ではないという点。今回の「宗令」が十分な基幹運
動の積み上げの中から出てきたものかという点。さらに「真俗二諦の教旨」をはじめとする九
六年の戦後問題検討委員会の提言の多くが積み残しになっている点。等々多くの問題を抱え
た「宗令」「宗告」であることを指摘せざるを得ない。 
 
  日本政府によって今、自衛隊がイラクに派兵され、多国籍軍として参加し、明日にも新たな戦
死者が出てもおかしくない状況に至り、すでに憲法「改正」が政治日程にのぼり、名実ともに
「戦争の出来る国」になるべく加速度的に進んでいる。この流れに立ち向かうことの出来る度
合いは、自らの運動の“根”の深さに比例することを肝に銘じ、この度の「宗令」「宗告」の芽を
より大きく育てるべく、基幹運動をより強化し推進することを要請する。

備後 靖国問題を考える念仏者の会 事務局
                728-0003 広島県三次市東河内町237
  西善寺内 TEL 0824-63-8042   


「門主の戦争中のご消息等の「失効」を表明した
      「宗令」「宗告」の成果と課題」
  −戦争責任の表明が「非戦」の行動となるために−  

広島部落解放研究所宗教部会事務局長
小武 正教
はじめに

  「戦争責任を明らかにし懺悔した僧侶がいない」、率直に言ってこのことは本願寺教団が宗
教教団として致命的な欠陥を持つていると思わざるをえない。戦後、金子大栄などわずかな人
間が、主観的に懺悔の思いを述べることはあっても、「何を生みだしたのか」「なにがそうさせ
たのか」「なぜそうなったのか」等という事実の検証と原因の究明は、はるか後も、それも教団
揚げてというのではなく、個人の研究を待たねばならなかった。なぜか。その最大の原因は
「門主の戦争責任を問わない教団であった」点にあるのではないか。この度の「宗令」「宗告」
が出て改めてそう思う。

 §.「主上」の一字が抜けた聖教−国家を問わない教団の象徴
  私が龍谷大学真宗学科に入学したのが一九七七年、真っ先に購入させられたのが真宗聖
教全書全五巻だった。当時は一九三一(昭和一六)年に初版を発行し、一九七三(昭和四十
八)年に再販された真宗聖教全書(以下「聖全」)が基本テキストであった。その時私の購入し
た「聖全」二巻の「教行信証」後序の部分、「主上臣下法に背き義に異し怒りをなし怨みを結
ぶ」(天皇とその臣下は、仏法に背き正義に反して、怒りをなして怨みをいだいた)と親鸞が書
き記した一二0七年の念仏弾圧への糾弾の文章、それが「教行信証」の原点となっているのだ
が、その中の「主上(天皇)」の二文字の箇所が空白となっていたのである。詳細は後述する
が、この文字を「聖教」から削除したのは一九二九(昭和十四)年、国家総動員法(一九二八
年)の下に総力戦が唱えられ、思想的にも国体明徴運動が展開される中であった。
「聖教」として位置づけてきた親鸞の著作から「主上」の二文字を自ら削除する本願寺教団に
「国家を問う」という視座を喪失してしまっていたことは言うまでもない。しかし、
それが戦後四分の一世紀が過ぎても、「主上」の二文字が書き込まれないままの「聖教」が何
の注釈もなく基本テキストとして使われていたのである。今の本願寺出版の『浄土真宗聖典』
が発刊されたのが一九八八年、そこには「主上」の二文字は印刷してあるが、それが消された
時代があったことは何処にも表明しないいままであった。
  
 §.門主の組巡教において、内陣の五存安置−「聖徳太子は上座」「七高僧は下座」
  現在の本願寺二十四代即如門主の全国組巡教が二00一年に三次組でも行われた。門主
が来るということになると門主が駅を降りてから行事寺院までの道順・時間はもちろんのこと、
本堂の前の石段の距離、控えの間取り等々、本山への提出書類は「ここまでさせるか」という
ほどのものである。言うまでもなく本堂の荘厳についても、各寺に任せるというものではなく、本
山からの指示による。外陣から向かって右余間(上座)に聖徳太子、そして左余間(下座)に七
高僧を安置するようになっている。しかし、この形は一九二九(昭和十四)年に、「天皇家につ
ながる聖徳太子をインドや中国の僧侶の下座におくのは
よろしくない」との判断で、左右を入れ替えたものである。敗戦後、本願寺の戦前の宗則は九
四八(昭和二十三)年に失効したが、この聖徳太子と七高僧の安置を下に戻す指示は出され
ず、二十一世紀にいたってもそれが正規の安置の形として門主組巡教において指導されたの
である。

  §門主の「ご消息」は聖教に準ずるとしてきた
  「門主の消息は聖教に準ずる」ということは本願寺教団の中でも自明とされてきたことであっ
た。従って明らかに間違いであっても「黒も白」としてきたのが教団の教学であった。この度の
「宗令」で「依用しない」となった「消息」の一通「殉国章」を引用する。
 「凡そ皇国に生を受けしもの誰か天恩に浴せざらん 恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓  
にしてまたこれ祖先の遺風なり 各々その業務を恪守し奉公の誠を尽くさばやがて忠  君の
本義に相契ふべし 殊に国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に  殉ぜん
は誠に義勇の極みと謂いつべし 一家同族の人々にはさこそ哀悼の悲しみ深か  るべしと覚
ゆれども畏くも上聞に達し代々に伝はる忠節の誉を喜び いやましに報恩  の務にいそしみ
其の遺志を完うせらるべく候」
  「聖教に準ずる」とは、「天皇陛下のために死ぬることが報恩の務めである」とするこの殉国
章が、二00四年の今年まで親鸞の書いた『教行信証』と同じ位置づけであったということであ
る。しかし大まじめに教団存立の根幹の問題として、「消息は聖教に準ずる」としてきたことが
次の文章からもわかる。

☆「ご消息というのは一人一人の教学と違って、教団では、宗制の中でお聖教の中に数え  
られているものだと思います。ですから三部経をはじめとして教行信証その他の聖教  と同じ
価値をもっておると、こうみられておるものです。これはおしいただいて、い  ただくものとして
います。(中略)あるいは、昔のご消息は、今の人が一寸どうかな  と思うものがあれば、そ
れはご消息自体の問題よりも、そのご消息の時代と今の時代  とのズレというものが一つは
考えられるとおもいます。ご消息はその時代その時代に  おいて、やはり、尊いものとして、
ご門主さまのおさとししとて、頂いてきた」
□「ご消息の裏にこもっている、そのお心をいただいていくべきものであると考えます。  決し
て時代が変わったから廃止処置をとれというような乱暴な意見には同調しない」◎「そうします
と、ご消息については、門末といいますが、宗門の一般は、絶対に批判は  許さない。どのよ
うなものでもご消息をめぐる論争などは、もってのほかであるとこ  ういう結論になるのです
ね。」
○「しかし、教団という一つの組織体ということになると、やはりそういうものと無関係  ではな
いにしても、秩序が成り立っておる。そうしたならば、それを批判することに  よって、例えば
処分されるということは大学の真宗学の研究室にはないかも知らんけ  れど、教団にはある
という差がありはしないかと思うのです。(教学論争とご消息批  判の是非をめぐって)」
  (一九七二 (昭和四十七)年二月二十一日教団発行の『宗報』別冊宗務情報「座談   
会“今日の課題”」より。)
  この発言に見られるように、歴代門主の書いた「ご消息」は、戦後も教団内では絶対的な権
威を持つものであり、門末のものが批判することは許されない、廃止措置など絶対に行うべき
性質のものではないとの認識を持っていたことがわかる。
※「消息」−教義の弘通のため、又はある事項について、ご門主の意旨を宣述するもの。

「宗令」「宗告」の内容と失効

 二00四年五月二十四日、総局は「宗門の『戦後問題』への対応について、「宗令」(ご消息)
についてと「宗告」(五存安置と聖典削除・不拝読)を発表した。翌日一般紙には次のように報
道されている。
  「浄土真宗本願寺派は二十四日、戦時中などに門徒に発布した戦争協力を呼び掛ける通 
 達などを失効させる「宗令」を出し、全国約一万四百の末寺に通達した。同派は二0  0三
年、戦争責任問題を解決するため、内閣に当たる総局に委員会を設置。議論の結  果、通
達などは誤りだったと認め、約六十年ぶりに戦後問題にけじめをつけた。
   同派は一九三一年の満州事変から四五年の太平洋戦争敗戦までの間、僧侶や門徒に 
 積極的な戦争協力をよび掛ける「御消息」と呼ばれる大谷光照門主(当時、02年死  去)
名の通達を六十通発布した。御消息は宗祖・親鸞の教えとされる「御聖教」に準  ずる効力
を持つ。総局は、ご消息は「国策として戦争に協力したもの」と認め、これ  らの文章を「慙愧
の対象とする」見解を発表した」
 本願寺教団の一般寺院には、宗告・宗令は、五月二十四日付で届けられ、また本願寺新報
六月一日号には三面全面を使ってその内容を掲載、併せて四面全面に戦後の本願寺教団の
「戦争責任の表明」の歩みを掲載している。つまり本願寺新報が門徒への宗告・宗令の「通
達」ということを意味すると思われる。
 この手紙が本山から届いた時、まず最初にはたして本願寺教団の戦争協力の実態を明らか
にし、「慙愧する」あり方が、「宗告」「宗令」というものでよかったのか?とまず疑問に思わざる
を得なかった。わざわざ本願寺新報には用語解説として「宗令」「宗告」を次のように解説して
いる。
 ・宗令−宗務の施行上特定の事項に関する一時的命令。
  ・宗告−宗務の施行について告知するために、総長が署名して発布する。

 §.その内容(全文)
    宗令第二号
  このたび、宗門が一九三一(昭和六)年から一九四五(昭和2二十)年にいたるまでの十五
年にわたる先の戦争に関して発布した、消息・直諭・親示・教示・教諭・垂示などは、今後これ
を依用しない。
        二00四(平成十六)年五月二十四日
          門主 大谷光真
  総長 不二川公勝 総務 松原功人 総務 出口湛龍
                      総務 速水宗譲 総務 下川弘暎
  宗告第八号
  このたび、二00四(平成十六)年五月二十四日付発宗令第二号による、「宗門が一九三一
(昭和六)年から一九四五(昭和二十)年にいたるまでの十五年にわたる先の戦争に関して発
布した消息などは、今後これを依用しない」とする主旨をふまえ、また「聖徳太子奉安様式」制
定にかかる達示及び「聖教の拝読並びに引用の心得」通達にかかる総局の対応を明らかにす
るため、ここに別紙のとおり「宗門における戦後問題への対応に関する総局見解」を告知す
る。
       二00四(平成十六)年五月二十四日
  総長 不二川公勝 総務 松原功人 総務 出口湛龍
                      総務 速水宗譲 総務 下川弘暎

  宗門における「戦後問題」への対応に関する総局見解

  このたび、宗務執行の責任を負う粂局は、一九三一(昭和六)年から一九四五(昭和二十)
年に至るまでの十五年にわたる先の戦争において、宗門が発布した消息・直諭・親示・教示・
教諭・垂示・達示・通達・訓告及び訓示その他の法規的措置によるすべての事項について、御
同朋の社会をめざした基幹運動の推進のために、真筆に過去の歴史に向き合い、問題解決
に向け取り組んでまいりました。
  ついては、本日、宗門の先の戦争にかかる責任を深く受けとめ、宗門内外に対して宗門が
発布したこれらの文書の検証をもとに、その見解を明らかにするものであります。
  
  一 戦時下に発布した「消息」などの取り扱い
  二 一九三九(昭和十四)年九月十六日に発布(甲達第二二号)の「聖徳太子奉安様式」を
     定めた達示
  三 一九四0(昭和十五)年四月五日に発布の「聖教の拝読並びに引用の心得」に関する 
     通達
  
  上記一の、戦時下に発布した「消息」などの取り扱いについては、国策としての戦争に協力
するものであったことを認め、これらの文書を漸愧の対象とし、全てのいのちを専ぶ宗門として
これを依用しないことを広く宗門内外に周知するため法的措置を講じたものであります。
  また二、三については、宗門の最高法規たる「浄土真宗本願寺派宗法」が一九四六(昭和
二十一)年九月十一日に発布、翌一九四七(昭和二十二)年四月一日に施行されており、その
附則第百条において「本宗法発布以前に制定され、現に施行中の諸規則で、本宗法施行に降
し、本宗法及びこれに基く諸規別に抵触しないものは、本宗法施行の日から一年以内、その
効力を有する。」との経過措置が講じられました。
  従って、これ以前の一八八六(明治十九)年に発布された「宗制寺法」に基づく全ての諸法
規は、遅くとも一九四八(昭和二十三)年四月一日には、全て失効しているものであります。
   
  これらのことに閑し総局として、宗門の今日までの「戦後問題」に関する取り組みの 経緯を
ふりかえってみます。
  戦後宗門は、大谷本廟において戦没者追樟法要を修行してまいりましたが、広く宗門 内外
に呼びかけ非戦平和の世界を願って、「第1回千鳥ケ淵全戦没者追悼法要」を国 立千鳥ケ淵
戦没者茎苑で修行したのは、一九八一(昭和五十六)年九月十八日のことでした。本年で二十
四回を数えます。また、一九八二(昭和五十七)年三月、広島での安芸門徒総結集大会にお
いて、ご門主様より「平和を願う言葉」(平和宣言)が発表され、一九九一(平成三)年二月に招
集された第二二五回定期宗会において、「我が宗門の平和への強い願いを全国・全世界に徹
底しようとする決議」がなされ、宗門の戦争責任に対しての漸愧と、平和への決意が述べられ
ました。
  終戦五十年を迎えるにあたり、一九九三(平成五)年より全教区において「全戦没者五十年
追悼法要」が修行され、一九九五(平成七)年四月十五日には、本山において「終戦五十周年
全戦没者総追悼法要」が厳修されました。ご門主様は、ご親教において、「宗祖の教えに背
き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を、仏祖の御前に漸愧せず
にはおれません」と、改めて宗門の戦争にかかる責任を明らかにされ、平和を求める念仏者と
しての決意を表明されました。
  これを契機として本格的に「戦後問題」への取り組みが進められ、先の戦争に関わる 教
団の諸事実を明らかにし、諸課題を提示することを目的として、「戦後問題」検討委員会が発
足し、一九九六(平成八)年一月二十四日、宗門と・して今日的に解決すべき諸課題を提示し
た答申が提出されました。
  
  その後、二00三(平成十五)年四月から新たな基幹運動推進体制が確立し、基幹運動が
推進される中、「戦後問題」検討委員会答申に述べられた諸課題に関する議論が宗会などで
も取り上げられてきました。
  その結果、二00三(平成十五)年十二月十五日、法規に基づく「宗門戦後問題検討委員
会」が総局に設置され、今日まで多方面から慎重な議論が積み重ねられました。そして、その
議論の合意として、次のような認識を共有することになりました。

  戦時下における宗門は、政治の全体主義化・軍国主義化とともに厳しい法の統制を受 け
ながら、国策としての戦争や国体護持に協力してきました。そのような状況下で、宗門は「消
息」などを発布し、「聖徳太子奉安様式」達示、「聖教の拝読並びに引用の心得」通達が出され
ました。
  それら一連の宗務的措置は、「世界の平和」、「東亜の安定」との大義を掲げ、アジア地域
への侵略を行った戦争に協力したものでありました。
  このうえは、「世の中安穏なれ」「仏法ひろまれ」との宗祖の遺訓を体し、過去の歴史への反
省に立って、戦争のない平和な世界を築いていくため、世界中の人びととの交流と対話をとお
して、非戦・平和への取り組みをさらにすすめていく所存であります。

歴史的事実

  §戦争遂行に駆り立てた「ご消息」
  十五年戦争並びにアジア太平洋戦争下において、本願寺教団は、教学・布教・法式などの宗
務機構のすべての機関を統制し、「国策に順応し教化の大方針を立てて、王法為本の宗風を
恢弘し、真俗相資の実を発揚すべき」と訓示して、「皇国宗教としての浄土真宗」を掲げていき
ました。そのため戦争遂行を仏法の名の下に正当化する「戦時教学」を構築し、「戦死は無我
の行・菩薩の行」、「義勇奉公こそ仏恩報謝」と教示し、戦死を偉業と讃えていった。
 また神社参拝も「皇道は日本民族の伝統であり、国体信念であるから神社参拝は国体明徴
に役立つ」として「敬うことを忘れてはならない」とし、伊勢神宮のお札(大麻)等も「「当然進んで
奉守すべきものである」とした。
 その中心をなしていたのが先に引用した「殉国章」に代表される「ご消息」であった。
直接戦争遂行に関わった「ご消息」は他にも一九三九年から四十五年までにも四通あり(『真
宗聖教全書』五巻頁七九0−)、それを頂点に教団全体が一致団結して直翰・親示・教示・教
諭・垂示・達示・通達・訓告等で、教団の全てを戦争遂行に揚げたわけである。
 
  §聖教の削除・不拝読
  一九四〇(昭和十五)年四月、本願寺当局は、親鸞聖人の主著である『教行信証』と『高僧
和讃』及び『正俊末和讃』の中の一部、そして覚如によって製作された親鸞聖人の伝記である
『御伝妙』などの一部の文言が日本の国体観念に矛盾し天皇神聖の原理に抵触すると認め
て、国家への忠誠を表すために、それらの文章を拝読し引用するについては、「削除」ないし
「不拝読」とすべきであると決定した。そして、教団の地方組織である全国の教区管事及び別
院輪番あてに『聖教の拝読並びに引用の心得』を通達配布した。
その「削除」ないし「不拝読」とすべきであるとした文章を紹介すると、
 
  四、(イ)『教行信証』流通分ノ「主上臣下背法違義成念結怨」
   (ロ)『御伝妙』下巻ノ「主上臣下法ニソムキ義二違シイカリヲナシアタヲムスブ」
   右ノ文ハ空白トシ引用若シクハ拝読セザルコト、

など、十三項二十六目に分類し詳細にわたって示しています。
 このような通達文書に対して、本願寺当局の枢密部長は「要するに本願寺派の人々(門末全
部)に『心得方』を示し、当本山の赤誠の心もち、宗祖の御意志を歪曲せしめたくないためにし
たことであります。宗祖は王法為本のご精神を基礎とされ、特に国家観念の強烈なる方であり
ます。決してその点『誤解さるべき方』ではない。よって正しき宗祖以来の歴史的伝統的精神を
この際明瞭に内示したのであります。」(昭和十五年五月九日。中外日報記事)との談話を発
表している。
 さらに、本願寺当局は『心得』について『内示趣旨』を発表し、この聖典の文字削除は、ひとえ
に「王法為本の宗風を遵守して国体明敏の周知を期せんが為」になされたものであって、その
聖典削除については、「宗義安心に関しては」「全然触るる所なし」とし、この度の削除通達は、
帰結するところむしろ「宗意を開顕せる」ものであり、「勧学寮に諮問し其の他これに関係する
各種の研鎖を総合し」て「合法的に決定せる」ものであって、批判反対は許さないという、きわ
めて強圧的な姿勢で指示されたものであった。
 
 §聖徳太子奉安様式の問題
 西本願寺では、蓮如上人の頃から、本尊である南無阿弥陀仏の六字名号を内陣中央の須
弥壇に安置し、宗祖の御影並びに前任上人(もしくは歴代宗主)の御影を内陣左右に懸け、七
高僧及び聖徳太子の御影像はそれぞれ左右の両余間に安置する、五専安置の様式が定式
化され下附様式の制度化をみるようになった。教団の歴史の中できちんとした形で「五尊安置
様式」が成立し「通式」とされたのは本願寺第十二代准如宗主(一五九二 (文録元)年〜一六
六〇(寛永七)年)の時代だと言われる。
 その五尊安置様式及び「通式」の特徴は、余問の安置様式において、七高僧御影が聖徳太
子御影よりも上座に位置する左余聞(外陣からむかって右側)に安置されていことである。そ
れは七高僧御影の中に、龍樹・天親のように菩薩の位にあり、歴史的には聖徳太子よりも先
に生まれられた方であり、聖徳太子は俗体にして後代の先徳であるとの理由からであった。ま
た、七高僧御影、聖徳太子御影の安置に左右の両余問の上下の位と順序の別はあっても、
あくまでも、左右の余問が対称的な安置空間であり、対副形態の枠内での区別であって、七高
僧御影を安置する左余聞を特別扱いするというわけではなかった。
 しかし、一九三九(昭和十四)年九月、近世、近代と一貫して伝統されてきた教団の「法式」に
おける五尊安置様式を覆す次のような「聖徳太子奉安様式」の制定が当局によって
断行された。

  甲達二十二号
  末寺一般
  今般聖徳太子奉安様式ヲ別記ノ通相定ム
  昭和十四年九月十六日           執行長 本田恵隆
  (別記)
  一、太子御影ヲ本堂ニ安置スル場合ハ向カッテ右余間ニ奉安スベシ
    追而七高僧御影ハ向カツテ左余間ニ安置ス
    由緒宗主御影等安置ノ場合ハ其左側トス

 別院及び一般寺院では、この通達によって、西本願寺法式に伝統されてきた五尊安置様式
を変更して、聖徳太子御影を七高僧御影よりも上座である右余聞に懸け変えさせた。しかも、
従来「安置」という用語でもって本堂荘厳を表してきたにもかかわらず、新たに「奉安」なる用語
を用いたのである。しかも、単なる余聞ではなく「太子殿」という別格の意義を持った「別殿奉懸
安置」懸安置」という性格を有すると心得べきとの内容をもつ達示であつた。
 こうした改変が行われた背後には、当時、軍部主導による天皇権威の形成と相侯って、国体
明徴運動(国体観念を愈々明徴ならしめる)や軍事体制がいっそう強化されていった時代であ
り、政府は仏教教団に対しても、文部省次官通達等によって国体明徴運動への理解と協力を
要請しましていたこともある。
 一方、教団の教学者たちは、「聖徳太子は、日本の神国なることを十分に意識し、其の神国
の理想を円成せんが為に、仏教によりて国民精神を長養せんとつとめられたのである。爾来
わが皇道精神は仏教の無我的体験によりて教養され、愈その具体的発展を遂げ、万邦無比
なる国民性を成就し来った。(中略)今日はまさに挙国一致興亜の大業を益々光彩あらしめ、
この聖業に猛進すべきである。」 (普賢大円「興亜の仏教精神」)と説き、親鸞聖人が頂かれ
た聖徳太子の恩徳を歪めて門信徒を教化していったのだった。

「宗令」「宗告」の評価と問題点

 すでに一九九五年の時点で、教団内の有志が作る「真宗ネットワーク」から、現在の総局の
責任において「失効宣言」をするよう求めた署名活動がおこなわれ、啓発パンフレット『敗戦五
十年 西本願寺教団の光と闇−教団の戦争責任と戦後処理を荷負するために」を発行してい
る。そのパンフには次のように述べている。
  「私たちは、戦後(昭和二十三年六月)『教育勅語』をはじめ天皇の詔勅などが、衆議  院と
参議院において失効宣言されたように、たとえ教団内において特別な権威を持つ  『ご消息』
であろうとも、仏祖に背き戦争に協力してきた内容のものについては、総  局が責任をもつ
て、その効力を失わせる宣言を行うべきであると考えています。何故  ならば、
  浄土真宗本願寺宗法
  第九条 門主は主務機関の申達によって宗務を行う
   二 前項の宗務については、申達した宗務機関が、その責任を負う。
  第十一条 門主は総局の申達によって、左の事項を行う。
   三 「消息及び宗令の発布」
  と示されておりますので、宗務機関であるところの総局において当然「ご消息」の失  効宣
言を行うことが出来ると、解するからです」
  そして、それが、一九九六年の「戦後問題検討委員会の答申」となり、さらに今年二00四年
に「総局見解」が出されるという経過となってきたのである。そこで、どこまで「門主の“戦争責
任”は明確となったか」が肝心な点であるといえよう。なぜなら、それが「教団の“戦争責任”」を
明らかにする過程で通らねばならない突破口だからである。

 §「“法規”は失効していた」という論理
 この度の「宗令」「宗告」は、すでに「一九四八(昭和二十三)年四月一日には、全て失効して
いた」という一寸狐に摘まれたような論理で発布された。教団内状況から考え出された苦肉の
策かもわからないが、「すでに失効していた」論が後に残す禍根は大きいと思わざるを得ない。
 まず第一に、戦後から今日まで、「はじめに」で見たように、「聖典削除」についても削除を放
置し、「五存安置」については、本山の方で戦前変更したものを指導しておきながら、「すでに
失効していましたはないだろう」というのが、この問題を課題としてきた宗門人の一人としての
率直な気持ちである。
 二番目に、「すでに失効していた」論では、今日まで放棄してきた問題には何も触れずじまい
になっている。今日まで放置されたのかということを問うことで、現在の教団・寺院の課題を明
らかにしていくことが出来るのに、この度の「宗令」「宗告」にはその芽を見ることが出来ない。
したがって現在の教団が責任をもって「失効」をしていくこととは、
事柄が大きく違ってしまっている。「失効」の責任は一九四六年時点にあり、現在の総局がそ
れを徹底させたということで問題が終わってしまう危険性が多分にある。

  §「宗令」「宗告」はご門徒に慙愧するものか?
  私が反靖国の活動の拠点としている備後・靖国問題を考える念仏者の会には何人もの戦争
体験を持つ人たちがいる。それは戦時中にお寺の本堂で、「戦死は菩薩の行である」「天皇陛
下の為に生命を捧げることがみ御教えに適う御報謝である」等々という説教を聞き戦争に行っ
た体験を今も抱えて生きている人たちである。どのように表現するかということはそれぞれだ
が、反靖国の活動を共にする中でその人たちの胸にある怒り?絶望?は尋常ではないことを
知らされる。そして今もなお戦時中のご消息が目の前で読み上げられることに、「何とかケリを
つけて死にたい」という執念を感じるのである。その人にこの度の「宗令」「宗告」はどう響いた
か聞いてみた。
 「わしらは六十年、スマンデシタノーという一言を聞きたかった。しかし、宗令じゃあ  宗告い
うのは、詫びとるんか命じとるんかわけがわからん。もうちーとシャンとせに  ゃー、死にきれ
んのー」
  肝心なことは「遅くなり申し訳ありません」と門徒に本当に詫びる姿勢があるかということであ
る。誰にこの「慙愧」の思いを届けようとして出す文章かということではないか。
  なんでもこの度の「宗令」「宗告」は前門主の三年の法要までにはケリをつけたいという現門
主の意向が大きく働いて、それで発布することが出来たともっぱらの話しである。
 そうした現実が、門徒・僧侶に対しては「慙愧の対象とする」と言いながら、上から下に通達
するという、まるで「慙愧」とは遠いい形になってしまったと思はざるを得ない。

 §門主の戦争責任は明らかになったのか
  「天皇の戦争責任が明確にされないことが、戦後日本の戦争責任が明確にならず戦後補償
が行われない根底にある」ことは、日本の戦争責任や戦後補償を課題とするものの共通に持
っている考えてある。それに比していうなら、「門主の戦争責任が全く問われてこなかった教団
に、教団の戦争責任が問えないこと至極当然の論理の帰結である」ということになる。
 戦後改正されるまでの「宗門法規」においては門主は当時は法主として行政的にも宗教的に
も最高の権限を持っていた。門徒にとっては俗に言う「生き仏」であったわけで、「生き仏」の言
葉によって門徒は戦争に駆り立てたわけである。門主の戦争責任は教団の戦争責任を明らか
にする上で、決して他の教団人と同列に考えることは出来ない。
 はたして、戦後五十九年、当事者・前門主が亡くなって二年、「ご消息を今後依用しない」とい
う決着の仕方は「門主の戦争責任を明らかにしたか?」と問えば、「否」と言わざるを得ない。
今後、この度の「宗令」「宗告」がきっかけとなって「門主の戦争責任の明確化とその表明へ向
けて進んでいくということがない限り、「これ(宗令・宗告)で終わり」などということになれば、「門
主の戦争責任」ひいてき「教団の戦争責任」を曖昧にしてしまうための「宗令」「宗告」と必ずな
るに違いない。

 §評価する点、課題とする点

(評価する点)
 第一、「聖教に準ずる」としてきた「ご消息」に対して、「今後、依用しない」という非常に弱い形
とはいえ、「国策としての戦争に協力するものであったことを認め、これらの文章を漸愧の対象
として」という形で実質上の失効宣言をしたことは、遅きに失したとはいえ教団としての新たな
一歩になったとことは間違いない。

(課題とする点)
  第一、戦時中の「ご消息」を出した当事者である前門が自ら行った「失効宣言」でもなく、また
当事者が生存中に行ったものでもないことに対して、本願寺教団の漸愧の質が顕れている。
万一これがモデルとなるなら、当事者が亡くなってでないと、総括が出来ないというものになっ
てしまうからである。
  第二、「教団の基幹運動の積み上げの成果」という面より、「現門主の意向を受けて」この度
の総局見解が出たということが教団内で語られる状況というのは、その事の真偽は別にして、
教団の主軸が、まだまだ「基幹運動」より「門主制」に依っていることを露呈している。
  第三、「漸愧」の裏付けとしての戦争責任の検証が、教団全体のものとなる動きを作らない
中で、いわば突然出された総局見解であった。一九九六年に出された「戦後問題検討委員
会」の答申を新たにうけた「戦後問題検討委員会」の審議の結果という形にはなっているが、
教団人にとっては何がどう検討されたのかされなかったのか一切知らされないままでの結果の
発表となった。
 第四、戦争責任を生みだした論理的柱とも言うべき「真俗二諦の教旨」については検討をさ
れた模様だが、先送りになったことは誠に残念というほかはない。言うまでもなく、教団が戦争
推進の一翼を担う事の出来た論理的裏付けである「真俗二諦」を総括していくことは、本来教
学面での戦争責任の最も大きな課題である。
 ※真俗二諦−宗教的真理の領域を世俗的領域と全く分離していく考え方。社会での教団のあり方は、その時代 
   の社会体制に合わせるが、信仰はそれとは全く無関係な領域で成立するという考え方。
  第五、「ご消息」にばかり焦点があたっているが、門主にそれを出させた当時の宗務行政、
教学者などの戦争責任については全く触れていない点。

「宗令」「宗告」が出るに至る経過

 §.先行研究
 本願寺教団の戦争責任を明らかにするための資料収集を教団のどこかの機関で継続して
取り組んできたということはない。あくまで個人の取り組みによるところが最もよくこの問題にた
いする教団の姿勢を示している。最もまとまった教団の戦争責任を明らかにする資料集は福
嶋寛隆龍谷大学教授を代表とした「戦時教学」研究会の出した『戦時教学と真宗』全三巻(第
一巻一九八八年発刊)であろう。
 今回の「宗令」「宗告」に直接繋がる研究としては、「聖典削除・不拝読」に関しては、「真宗に
おける聖典削除問題」というテーマで龍谷大学教授信楽峻麿が『講座 日本近代と仏教6 戦
時下の仏教』(一九七七年発刊)に発表したものがある。また「五存安置」の問題については、
一九九0年、龍谷大学教授龍渓章雄が「天皇制ファシズム期の真宗の一断面−西本願寺教
団における「聖徳太子奉安様式」の制定−」(龍谷大学論集一九九0年)が唯一といってもいい
であろう。そして、戦時教学については真宗学・歴史学の研究論文がかなり存在するが、戦時
中の消息・直諭・親示・教示・教諭・垂示などを網羅したものは一九九六年の「戦後問題検討
委員会」の内部資料としてまとめたものがあるだけである。
 
 §.信楽峻麿の提起と真宗ネットワークの署名活動
 一九九四年一月三日の中外日報紙一面に「敗戦五十年の反省」「せめてこれだけは」という
リードで龍谷大学学長・信楽峻麿の文章が掲載されている。その内容が、今回の「宗令」「宗
告」に繋がる三点、「ご消息」の失効、「聖典削除・不拝読」「五存安置」の三点であった。「敗戦
から五十回会の年を迎え、本山においても四月十五日に「終戦五十年全戦没者総追悼法要」
が勤められる四カ月前であった。 
  それを受ける形で教団内の「教団の戦争責任を考える真宗者の会」「同朋運動を考える会」
「樹心の会」「真宗遺族会」「反靖国連帯会議」の五団体が連帯して「教団の戦争責任と戦後処
理を問う真宗者ネットワーク」を結成し「ご消息」の失効、「聖典削除・不拝読」「五存安置」の三
点についての戦後処理を求める署名運動を展開し、総局と議長に提出しました。
 
 §一九九四年「終戦五十年全戦没者総追悼法要」
 一九九四年四月十四日「終戦五十年全戦没者総追悼法要」当日の法要の様子を朝日新聞
四月二十三日の東京版(夕刊) には「英霊供養型から平和祈念型へ」、“戦争協力の清算を
めぐり論議も”と報道されている。法要当日は、本願寺御影堂に一五〇〇人の門徒、僧侶が
参拝し、門主の導師のもとで「正信偈」を唱和し、その後、門主は『ご親教』でこう述べた。
 「人類の罪業ともいうべき戦争は、人間の根源的な欲望である煩悩にもとづいて、集団  に
よって起こされる暴力的衝突であります。そこでは非人問的行為が当然の事となり、  “いの
ち”は物として扱われ、環境が破壊されます。それへの参加を念仏者の本分で  あると説き、
門信徒を指導した過ちを驚く見据えたいと思います。宗祖の教えに背き、  仏法の名におい
て戦争に積極的に協力していった過去の事実を仏祖の御前に漸捜せず  にはおれません」
しかし、日本軍のアジアヘの侵略に伴う西本警の海外開教、従軍布教の問題などには触れな
かった。
 引き続いて、松村了昌本願寺総長は「ご親教」を頂いての「決意表明」として、教団の具体的
戦争協力に触れ、
 「聖教の削除、不拝読。聖徳太子奉安様式の変更」などの戦時下の宗務行政は「教団の犯
した過ちであった」と明言しつつ、「誠に漸愧に堪えない」と懺悔の念を明らかにした。
(『写真に見る戦争と私たちの教団〜平和を願って〜』頁50- ブックレット基幹運動NO10)
 
 §.戦後問題検討委員会の答申
 「終戦五十年全戦没者総追悼法要」をうけて教団に「戦後問題検討委員会」が設置され
一九九六年一月二十四日付で「答申」が出され、「教団の具体的戦争協力について」十項目、
さらに「教団の今日的課題について」今後の課題として八項目を明らかにしている。
(『写真に見る戦争と私たちの教団〜平和を願って〜』頁52- ブックレット基幹運動NO10)
その課題の八項目の要旨を概略する。  
  @.教団の戦争及国家・社会との関係のありようを基礎づけてきた「真俗二諦の教旨」   
の問題性をあきらかし、見直す。
 A.戦時下の門主の消息・裏方訓諭、執行長訓告、達示などの取り扱い
  B.聖教の「不拝読」などの「心得通達」の失効
 C.聖徳太子五存安置(一九三九年九月三十日)の通達の失効
 D.仏教婦人会・仏教青年会などの戦前の「国体」護持・奉公を尊んだ「画一的人間像の総
    括
 E.「海外開教」の全容解明とそれを踏まえたアジア・太平洋諸国との交流
 F.「平和センター」を開設し、教団の戦争に関わる社会的責任をはたす。
 G.「千鳥ヶ淵全戦没者追悼法要」の主旨、「終戦五十年全戦没者総追悼法要」の精神に基
    づいて各教区で「平和のつどい」などの取り組みを開催
  
 §二00四年「宗令」「宗告」が触れなかった課題
  九六年、戦後問題検討委員会の「答申」は出はしたが、そままま棚ざらしになっていた。それ
が前門主の死去をきっかけに、「門主の意向?」という動機で今回の「宗令」「宗告」がでること
になったわけである。今回の「宗令」「宗告」では「答申」をどこまで進めることができたか。「ど
こまで出来たか?」ということは別にするなら、「答申」のABCは課題として取り組み前に進
めることができたが、@DEFは未だ「答申」が出されたままという状況にある。

おわりに

 「過去に眼をつむることは未来を失うことである」とは戦後四十年におけるドイツ・ヴァイツ・ゼ
ッカー大統領の有名な言葉である。今回の「宗令」「宗告」が出るまでは、「門主の戦争責任」に
ついて明らかに教団は眼をつむってきた。そして今回の「宗令」にしても、両目を見開くどころ
か、ほんの僅か眼を明けようとし始めたところにすぎない。
 しかしすでに日本の状況は、自衛隊はイラクに派兵され、多国籍軍として参加し、明日新た
な戦死者が出てもおかしくない状況に至っている。教育基本法「改正」や憲法「改正」が政治日
程に乗り、名実ともに「戦争の出来る国」になるべく加速度的に進んでいる。今この状況にどこ
まで教団・僧侶・門徒が向き合い行動することが出来るのかということと、「教団の戦争責任」
を明確化することは表裏一体のものである。教団にしろ一カ寺の寺院にしろ、その流れに立ち
向かう度合いは、自らの運動の“根”の深さに比例する。どれほど踏ん張れるか、いつまでやり
続けることが出来るか、そこに「戦争責任の検証・学び」の内実が顕れてくることは間違いな
い。  



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