小武正教
(司法の責務としての違憲判決)
二00一年八月十三日、小泉総理は靖国神社に参拝した。私が総理大臣になれば、八月十
五日に参拝すると公言したが、内外の反対を受けて二日前倒ししての参拝である。以来今年 まで都合四回、公約通り靖国神社に参拝している。それに対して全国六カ所(大阪、九州・山 口、四国、東京、千葉、沖縄)で「総理大臣の公式参拝は憲法違反である」との訴訟が起こさ れている。しかし、今年二月の大阪判決、三月の四国の判決では、靖国参拝の憲法判断をし ない状況が続いていた。
総理大臣の靖国神社参拝を巡って裁判が最初に起こされたのは一九八五年八月十五日に
中曽根総理大臣が公式参拝であることを公表して参拝したことに対して違憲訴訟を起こしてい る。その時は、「違憲の疑いがある」(大阪)、「継続すれば違憲」(福岡)という裁判官のコメント はなされたが、明確に「総理大臣の公式参拝は違憲」とした判断は今回が初めてであった。判 決では「十分な議論も経ないまま参拝はくり返されてきた。裁判所が違憲性の判決を回避すれ ば、今後も同様の行為がなされる可能性が高い」として憲法判断を示すことを「自らの責務」と 述べている。言ってみればいままで司法が憲法に則った判断をしない方が異常であって司法 の責任を放棄していたわけである。
ただしこの度の福岡地裁の判決を下した裁判長は、二00二年四月に佐賀地裁で「自治会が
神社の管理費を強制的に集めることは憲法の精神に違反する」という判決を出した裁判官で あり、すでに新聞などでは裁判官を問題視するような記事が掲載されるなど、司法の独立性を 平気で侵すところまで保守反動化は進行している。
(小泉総理、政府の靖国神社参拝の意図)
小泉総理大臣はただちに「なぜ違憲になるのかわからない」「参拝は今後も続ける」というコ
メントを発表している。
小泉総理自身、公式参拝は、「国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動も
してはならない」(憲法八十九条)に違反するということは十分承知で行っていると思わざるをえ ない。なぜなら、あれほど総理大臣として「参拝する」とくり返し、公用車を使い、内閣総理大 臣・小泉純一郎と記帳して、「国民」向けには総理大臣の参拝でせあることを殊更に印象ずけ る一方、いざ裁判においてはそれが私的参拝であることを主張しつづけたのである。憲法判断 をさけた大阪判決でさえ社会通念から言えば、「公的参拝」と判断した。ではなぜ敢えてそうま でして「公式参拝」を印象ずけねばならないか。そこにこそ参拝の本質が隠されているといわざ るをえない。一言で言えば、日本が「戦争をする国家」となるための「戦死者の受け皿」というこ とを含めた、国のために死ぬ人間を作る条件整備であるといえよう。 それはいうまでもなく、 日米新安保ガイドライン、周辺事態法、そして有事法制、さらにはイラク特措法と、「戦争の出 来る国」から「戦争をする国」へと突き進んできた。それは同時に、「国旗・国歌法」の制定と強 制から、今教育基本法の「改正」、さらには憲法「改正」が政治日程に載せられる状況と一体で あることは言うまでもない。
「国のために生命を投げ出す国民を作る教育をする」というそのためには、「国の為にいのち
を捧げさせ、それを賛美し、後に続けとする装置」として、どうしても靖国神社へは総理大臣と して参拝せねばならないというのが参拝の意図である。
その意味で、譬え地裁の判断とはいえ、「違憲」の判断が下されたことは、「戦争する国家」へ
進ブレーキをとしての意義は大変大きい。
(イラクで自衛隊員が「戦 死」すれば?)
大義なきイラクへの一方的な侵略戦争とそして米軍による占領統治にたいするイラク民衆の
抵抗運動が大きくなつている。イラクへ派遣された自衛隊員にいつ殉職者(「戦死者」)が出て もおかしくない状況になりつつあるが、何が何でも自衛隊を撤退させる様子はない。アメリカの グローバリズムというまさに一国主義の傘下で「国益」を得ることに正に「信仰的」確信を持って いる小泉総理は、自衛隊の「戦死者」が出ようと、自国民が人質にとられようと、自衛隊を撤退 させることはないだろうと思われる。それが、日本の中はもとより中国や韓国などからどれほど 批判され、外交上の齟齬をきたしてもも靖国神社へ必ず参拝するということと同じところから出 ている行動である。
今自衛隊員が、公務で死亡すれば、東京市ヶ谷にある「メモリアルゾーン」にまず祀られる。
「メモリアルゾーン」には自衛隊殉職者慰霊碑が建てられ、追悼式は一九五七年からすでにお こなわれ、総理大臣の参拝もすでに一九五七年の岸
、六二年の池田、八八年の竹下と続いて、九六年の村山からは毎年出席が続いている。
自衛隊員が「戦死」した場合、「弔慰金の引き上げ措置(一億円)」が政府から発表された
が、それだけでは政府の言う「敬意」を表して、次へ続けということにはならない。国家による 「死を賛美」する追悼を国家の側も、国民世論を見極めながら今まさに模索している。
(国による無宗教の追悼施 設の再浮上?)
総理大臣による靖国神社への公式参拝は、「国が無宗教の追悼施設を」という論議を再燃さ
せる可能性がある。二00二年十二月に官房長官の諮問機関として作られた「追悼・平和祈念 のための祈念碑等施設のあり方を考える懇談会」(平和祈念懇)が「(国による無宗教の)追悼 施設を作ることが望ましい」という報告書が出されたが、実際は靖国神社国家護持推進派らの 反対により店晒し状態になっている。
この度の福岡地裁の判決に対して、公明党は「無宗教の国立追悼施設(構想)がとん挫して
いるが、建設を訴えていきたい」と述べている。民主党も多少のニュアンスは違っても、「国に よる無宗教の追悼施設の構想」を持っている。また朝日新聞などの論調は、もともと「無宗教 の国立追悼施設を」という論調で、この度の判決に対する社説(四月八日)でも「首相の発案で つくった懇談会が新しい国立の追悼施設を提言している。靖国参拝にこだわる首相はもう関心 を失ったのか、計画は一向に進まない」と述べている。
また韓国からもこの判決に対して、「日本の首相の靖国神社参拝に反対する」と述べるととも
に、新たな追悼施設が必要だと立場を主張したことが掲載されている。
では、靖国神社という「宗教法人」でなく「A級戦犯を外した」、無宗教の国家追悼施設なら、
総理大臣が参拝してもいいのかという問題がそこにある。すでにそうした発想は一九六0年代 の靖国神社国家護持法案の時からあり、最近も一九九九年に当時の野中官房長官の靖国神 社を宗教法人でなく「特殊法人化」してはどうかという発言がなされたことは記憶に新しい。
つまり政府の側は、「戦争する国家」となるということを基軸 にして、そのための、法律(憲
法)、教育、文化・歴史認識、さらには公的に死者を位置ずけ、そのための装置を整えようとい うのであって、極論すればその目的が達成されれば、靖国神社でも無宗教の国立追悼施設で もいいというのが本音である。
やつとの思いで勝ち取った、「公式参拝は違憲」という判断であるが、これを武器としながら、
見据えてゆくものを見失ってはなら
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