沖さん 宗制改正案条文訂正案(草案)・意見等


「宗制」変更案に対する意見
 
安芸教区佐伯奥組大通寺沖 和史
 
 『宗報』2004年11・12月合併号88ページ以下に「宗制」変更案が提示され、検討と意見提出
が求められた。それに従って意見を提出する。以下、「ご報告」に対する問題点提示、「浄土真
宗本願寺派宗制」改正案に関する意見、「宗制改正案」条文訂正草案の順に述べる。

まず、「ご報告」について、問題点を示す。

1.この「ご報告」の発信者が明記されていない。「ご報告」を読めば総局のようだが、意見の 
  宛先は担当部(法制部)となっている。なぜ報告の発信者の名前を伏せるのか疑問であ 
  る。

2.「検討いただきたく」「ご意見などございましたら」とあるからには、単なる報告ではなく、検討
  依頼、意見提出依頼でもあるべきであるのに、「ご報告」としか書かないのはなぜなのか理
  解できない。納得できる説明を期待する。

3.「宗制は…宗門にとっては普遍的な内容によって構成されている」という総局見解が示され
  ている。普遍性を持つものには、いかなる時にもそれを「改正」する必要性は生じないはず
  である。今という時点で「改正」案を提出することを決定した理由を明確に示すべきである。

4.「しかしながら」で始まる段落では、「普遍的な内容」であるにもかかわらず、時間経過と宗
  門内外の状況という非普遍的な条件により、宗門関係者からの問題提起があったとする。
  そうすると、「普遍的な内容」を理解しない宗門関係者からの不当な圧力があったことにな 
  るであろう。これでは「改正」を提案する正当な要件を欠くと思える。

5.「改正」案を検討するよう依頼するうえで、「直面する諸課題」の具体的内容をよく知ってもら
  うことは必須と思える。さもないと、3、4で述べたとおり、「宗門関係者の皆様」には「改正」
  の意義が見出せないおそれがあるからである。そしてさらに「諸課題」を「段階的に解消」す
  るためのプログラムを提示すれば、「改正」の意義がもっとよく分かることになるだろう。し
  かし、そのどちらも示されていない。報告する上でも重要なこれらの点を示さない理由を知
  りたいと思う。

6.答申書およびそれに基づくこの「改正」案は、「直面する諸課題」をどのように解決したのか
  ということも「ご報告」では全く触れられていない。解決の方向性と具体的な提案の概略を
  示すべきである。

7.『宗報』が到着してからわずか1ヶ月足らずで意見を提出せよという総局の態度は、最高法
  規の検討という重大性と検討期間の短さという現実を無視したものである。とくにこの時期
  は、僧侶は報恩講(おとりこし)で多忙を極めており、在家門徒の方々は年末の多忙な時期
  である。この時期に十分な検討ができるとは考えられない。もっと長い検討期間を設けるべ
  きである。

8.以上の通り、この「ご報告」は、解決すべき問題の概略も提示せず、「改正」の意義も方向
  性も具体的に提示しない、問題だらけの文書である。「宗門存立の根拠法」「最高法規」改
  正という重大事をわきまえないように見える。かつて全住職宛に送られた総局発「ご報告」
  は、報告に必要な体裁となっていないものであったが、今回の「ご報告」も、報告に必要な
  客観的情報を提供していない。同じ過ちを犯していると言える。

「浄土真宗本願寺派宗制」改正案に関する意見

 「ご報告」に対する意見で述べたとおり、総局「改正案」の方向性も解決すべき問題をどのよ
うに解決したのかのポイントも説明されていないので、全くの前提なしで読むと、いくつかの疑
問が湧く。以下列挙する。

1.「改正案」の中に「(本願の)教え(を)浄土真宗(と名付け)」「教義」「宗義」「法義」「宗旨」な
  ど、似た内容のことばが出てくるが、その区分が読んでも分からない。典型例は、「信心正
  因・称名報恩の宗義を本とする」(前文)と、「これを信心正因・称名報恩といい(=宗義)、
  土真宗(=(本願の)教え)の宗旨とする」(教義)との間にある、意味の違いの分かりにくさで
  ある。
  ≪宗≫とは「浄土真宗」と名付けられた≪教え≫であり、≪宗義≫とは「教えの内容」、≪宗
  旨≫とは「教えの核心」となろうが、「改正案」では、「信心正因称名報恩」を介して、「宗義」
  と「宗旨」とが同義となるように見える。また、「法義」は本来仏法そのもの(釈尊の説法内
  容)を表したのであろうが、「宗制」においては「宗義」とどのように異なるのか分からない。
  「教義」は普通「教理」とも言われ、教団が真理として公認する教えの内容(dogma)である
  から、「真宗」または「(諸)宗義」と同義となろう。だから、「ご報告」においては、私のような
  「宗門関係者」の理解の混乱を前もって防ぐ手立てが求められるのである。
  それに加え、長文でもない「宗制」の中にこのような似た意味の語が多く使われるのは、法
  規として問題である。折角「教え」ということばを導入したのだから、それにあわせて、他の
  語の意味内容を整理すべきである。
  「宗制」が「宗門関係者」の「最高法規」「宗門存立の根拠法」であるならば、「ご報告」にあ
  るとおり「正確かつ分かりやすく」、宗学者のみならず在家ご門徒を含む全員が理解しうる
  ための配慮が必要であろう。このような語の不統一は、法律としても、完成度が低い「改正
  案」であると評価されるであろう。

2.「前文」において「(宗祖滅後の)門弟」と「遺弟(=死後にのこった弟子)」、「宗風」におい
  て、「万人」と「生きとし生けるすべてのもの」とが、短い文の中で書き分けられている。後者
  については、素人考えでは、どちらも「十方衆生」という願文中の語を現代語で表現したよう
  に見えるが、書き分ける理由があるのか?
  これも、法律として完成度が低い「改正案」であると評価される理由となるであろう。

3.本典は六章構成であるのに、前四章のみを扱うのは、江戸宗学の偏りを持ち越しているか
  らと思われる。後二章(真仏土巻・化身土巻)が無視される明白で正当な理由が示されない
  のでは、宗祖の示された「教義体系」の一部のみをご都合主義で採用したことになる。
  また、「改正」案「第1章 教義」の内容は、「御同朋の教学」を構築するという「本宗門」の 
  「基幹」運動との関連が見出しがたい。「基幹」運動との関連を欠く「宗制」とは何なのか。総
  局は両者の関連性をはっきりと示すべきである。

4.「仏恩」報尽であるべき報恩行は現生十益の一つ(知恩報徳の益)として位置付けられるべ
  きである。そして称名のすべてが報恩行である訳でもなく、また、報恩行のすべてが称名で
  ある訳でもないという論理的関係を明確にすべきである。たとえば、「しかれば大聖の真 
  言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りて
  いはく」とあるように、宗祖は仏恩報尽のために『正信偈』を著わされた。また、「ただひが
  うたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはば、仏の御恩を報じ
  まゐらせたまふになり候ふべし」と諭されている。これまで「知恩報徳」を称名のみに限定し
  た結果、あるいは称名を狭く解釈した結果、現生十益の躍動性を見失い、真俗二諦という
  過ちに陥り、自己と社会の歪みをただす行動に無関心な門徒であること、体制に従順な門
  徒であることを奨励したことを考えるべきである。
  また、戦前国王の恩(皇恩)にまで「報恩」を拡大解釈した「本宗門」の歴史への反省が見
  出せない。したがって、「宗風」にある「違いを超えて」という文言も、抽象的で空疎な言辞と
  なってしまっている。

5.「浄土真宗」という平等の慈悲の教え、「十方衆生」に開かれた宗祖の教えと血統の強調
  (本願寺の歴史を現行宗制より詳しくして3代・8代・11代「宗主」を新たに加え、また「宗風」
  にも再掲するなど)とは両立し得るのか? 
  これは貴族主義への回帰のように見える。
  両者が両立し得ると考えるとすれば、浄土の平等を穢土に持ち込むのは「悪平等」だと主
  張した理論と、原理的にどのように異なるのかを、きちんと説明すべきである。
  それに加え、本願寺の歴史の記述が桃山時代で終わり、その後の歴史が無視されている
  のも気になる。負の歴史の反省がそれほどいやなのかと邪推してしまうことになる。

6.「本宗門」が「同朋教団」であるという現行宗制の規定は決して外してはならない。宗祖が
  「とも同朋」と仰る人間関係こそ、わが教団の基本だからである。
  その意味では、浄土真宗に属する「門弟」「遺弟」という表現は、宗祖に従えば「釈尊の弟
  子」すなわち、≪真仏弟子≫という意味で理解すべきであって、決して宗祖の弟子と考えて
  はならない(「弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり」「如来の遺弟悲泣せ
  よ」「親鸞は弟子一人も持たず」)。だから、「前文」にある「宗祖の門弟たち」「遺弟たち」と
  いう表現は「御同朋」に改める必要がある。「御同朋」は蓮如上人のご文章にも引いてある
  ことばである。

7.年号表記について。武野総局の時に、総局から発信する書面の年号表記はすべて≪西暦
 (国際暦)年(元号年)月日≫に統一された。それまでは、たとえば安居に関する通達は元号
  のみだった。このような統一は、当然基本法規(最高法規)も含めて行なわれるべきであろ
  う。
  「本宗門」の基幹運動のスローガンは「念仏の声を世界に」なのだから、当然、世界に通用
  する年号表記が要求されるべきである。「宗制」改正案にも、「万人に開かれ」「生きとし生 
  けるものすべて」という表現がある。だから、日本のみに閉じたものでなく、その内容に見合
  った年号表記であるべきである。
  なお、宗祖は年号表記に干支をつけていらっしゃる。干支は当時の國際暦の役割を果たし
  ていたと思われる。

宗制改正案条文訂正案(草案)

目次

前文
第1章 教え(または、浄土真宗)
第2章 本尊
第3章 聖教
第4章 宗風
第5章 補則
附則


 本宗門は、親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、その教えを信奉し伝道する同朋教団であり、浄土真宗
本願寺派と称する。
 宗祖親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』を撰述して、『仏説無量寿経』真実教であるこ
とを明らかにし、そこに開示されている阿弥陀如来の本願の教えを浄土真宗と名付け、本願
力回向を基軸として仏法を真仮偽に弁別し、真実の仏法を顕示した
 この真実の仏法すなわち本願の教えは、龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導
大師、源信和尚、源空上人の七高僧を代表とする伝灯の祖師たちの教えを通して宗祖に伝わ
った。それゆえこの撰述の成立をもって浄土真宗の立教開宗とするその教えの根本は、阿
弥陀如来が完成された第十八願を聞信した人は誰でも往生即成仏の道が定まリ、御同朋とと
もに人生をおそれなく生きぬく力を得ることを明かす点にある
 宗祖の滅後10年を経て、その末娘覚信は御同朋ともに、京都東山の大谷に仏閣(廟堂?
を建て、宗祖の遺骨と影像を安置して敬慕の中心施設とした覚信の孫覚如はその廟堂を本
願寺と名付け、本願寺教団の中心寺院と定め本願寺第8代蓮如は本願寺を山科へ移転し
て中興、その後寺基を大坂の石山へ移した。第11代顕如は石山から退去し、ついで豊臣秀
吉の寄進により京都堀川六条に寺基を定めた。その後本願寺教団は徳川幕府の寺檀制度を
支え、宗学が栄えた。明治時代には最初政府の神道国教化政策に反対したが、真俗二諦説
に基づき国家政策に同調した。第二次世界大戦後は、その反省のもとに、日本国憲法下にお
いて宗教法人浄土真宗本願寺派を設立し、現在に至っている。

第1章 教え(または、浄土真宗)

 浄土真宗は、『顕浄土真実数行証文類』六巻示されるように、本願力による往相・還相の
二種の回向と、往相の因果である教・行・信・証の四法のみが真実の仏法であり、これ以外は
仮偽であることを明かす教えである。
 真実の教は『仏説無量寿経』である。真実の行阿弥陀如来よりあらゆる衆生に回向された
(「さしまわされた」「ふりむけられた」でも可、以下同じ)本願の名号を諸仏が称讃されること、
すなわち南無阿弥陀仏である。真実の信、本願の名号を聞いて疑わないことをいう。この真
実の信如来より回向された(「さしまわされた」「ふりむけられた」)大智大悲の心であるから、
この信のみが往生成仏の正因となる。真実の信を獲た時にいかなる衆生も往生定まり、正
定聚に住する。真実の信は称名行を必ず伴い、如来のご恩を念じてこの身とこの世の歪みを
ただす活動に向かうおそれなき生き方を生涯相続せしめる。真実の証、真実の浄土である
報土に往生し、慈悲と智慧の円満した無上仏果を得ることをいう。
 この真実の四法は往生成仏の大道であり、これが阿弥陀如来よりあらゆる衆生に回向さ
れる(「さしまわされる」「ふりむけられる」)ことを往相回向という。仏果を得ておのずから大悲
を発し、生死の迷界に還り来て自在にあらゆる衆生を済度することも真実の証の姿である
の大悲のはたらきが回向される(「さしまわされる」「ふりむけられる」)ことを還相回向という。
のように往相も還相も如来大悲の本願力回向でありこの回向による利益こそ、あらゆる衆生
あらゆる衆生を尊び敬う存在となりうる誓願一仏乗の大道である。
 以上が浄土真宗という教えの大綱である。

第2章 本尊

 本宗門の本尊は、阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)一仏である。
 本宗門は、諸堂に本尊を安置するとともに、本願寺においては、教法弘通の恩徳を報謝する
ため宗祖、七高僧、聖徳太子および歴代主の影像を安置する。被包括寺院においては、本
尊を中心に宗祖の影像を安置するものとし、本願寺に準じその他の影像を安置することがで
きる。

第3章 聖教

 本宗門の正依の聖教は、次のとおりである

(一から三は省略。「改正案」と同じ)

 上記のほか、宗祖が浄土真宗の書として敬重された典籍は聖教に準ずる。

第4章 宗風

 本宗門は、宗祖の教えに従、阿弥陀如来の不簡の本願を唯一のよりどころとして往生即
成仏の大道を歩む人びとの同朋教団である。したがって本宗門はあらゆる人びとに向かって
平等に開かれており、宗祖の導きを仰いで世界全体の平和と平等を求め、あらゆる人びとが
阿弥陀如来より回向された(「さしまわされた」「ふりむけられた」)慈しみの心をもって行動する
ことのできる社会の実現を目指す
 本宗門の人びとは、真の念仏者として非僧非俗を貫いて生き抜かれた宗祖の行跡を慕い、
そのお示しに基づいて、真実の浄土往生することを喜び御同行として、つねに同一に念仏
し、聞法と伝道に努める。そして、御同朋として、わが身とこの世の歪みをただす生き方に向
かい、卜占・祭祀・祈祷を行わず(または、必要とせず)、自他ともにおそれなく生きることを喜
びとする。

第5章 補則

 本宗制を変更するには、あらかじめ本宗門を構成する人びとから意見を聴取してその総意
の帰するところを慎重に決定し、宗会議員の4分の3以上が出席した宗会において、出席議員
の4分の3以上の多数で議決しなければならない。
 本宗制の変更は、宗門全般に公示し、その公示の日から2か月以内に宗門投票を行う決定
された場合を除き、総長は、直ちに発布の手続をしなければならない。

附則
1 本宗制は、[国際暦] (平成 )年  月  日から施行する。
2 浄土真宗本願寺派宗制(昭和21年9月11日発布。昭和22年4月1日施行)は廃止する。


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