03.11.8 意見具申書

改めて意見具申書ですが
関係各位様 
                            平成15年11月8日
        〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3−5−15荒井ビル4階
           岡田法律事務所 電話03.3233.1081 faxO3.3233.1083
                    全日本仏教会・信教の自由委員会委員
                     真言宗豊山派・泉福寺住職
                     弁 護 士 岡 田 弘 隆

前略 豊山派の岡田弘隆です.
先に拙子は7月2日付で、全仏に対して「「宗教教育推進特別要員会」を白紙に戻すことを強<
提唱いたします」と頭する、意見具申書をお届しました。
またその後の情報として、全仏内部での動き(理事会と非公式の動き)がありましたので、改め
て10月1日付けでの「意見書」を出しました。
今回11月20日に、全仏の全国理事会が、東京、芝の「東京グランドホテル」で年後1時30分か
ら開かれるようですので、改めて別紙の「ll月8日付意見具申書」を提出しましたので、お届けい
たします。
また、各位の情報がありましたら、拙子にもお届けださい。
更には、この間題での連携の方策につき、ご指導<ださい。
それでは、お互いに精進しましょう.
ご自愛をお所り申し上げます.
追伸・全部で、今回は9枚です.



意見具申書の取り扱いについて
全日本仏教会 御中
    
                            平成15年11月8日
        〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3−5−15荒井ビル4階
           岡田法律事務所 電話03.3233.1081 faxO3.3233.1083
                    全日本仏教会・信教の自由委員会委員
                     真言宗豊山派・泉福寺住職
                     弁 護 士 岡 田 弘 隆

       理事会と理事教団宗派等に配布願います

前略、先に拙子は、7月26日付けで、「「宗教教育推進特別委員会」を白紙に戻すことを強く提
唱いたします」との文書を、提出させていただきました。
ところで、11月20日に、平成15年度第3回理事会が開催されるとのことですので、別紙の「11
月8日付意見具申書」を改めて提出いたします。
全仏内部での真剣な議論を希望いたしまして、できれば事前と当日とに、今回の意見具申書
を加盟の理事教団宗派と、理事会とに配布願いたく、お願い申し上げます。
関係各位の−層のご発展とご自愛をお祈りし上げます。   合掌


意見具申書
全日本仏教会 御中
                   平成15年11月8日
        〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3−5−15荒井ビル4階
           岡田法律事務所 電話03.3233.1081 faxO3.3233.1083
                    全日本仏教会・信教の自由委員会委員
                     真言宗豊山派・泉福寺住職
                     弁 護 士 岡 田 弘 隆


前略、先に、拙子は「教育基本法改正」問題について、「宗教教育推進特別委員会」を白紙に
戻すべきであるとの「意見具申書」を、去る7月26日付で提出させていただきました。また、こ
れに関連して、その後の動きを踏まえて、同委員委員長らによる「全仏加盟の有力11教団宗
派の宗務総長ら」への個別訪問を中止するように求め10月1目付で「教育基本法改悪推進政
策の中止を」と題する意見書を提出致しました。
今回、また全仏の11月20日の理事会があるということですので、よい機会として、「教育基本
法」問題につき、改めて意見具申書を提出するものです。

1、拙子の意見具申のまとめ

 今回もこれまで同様に、全仏が教育基本法改正(改悪)推進の方針を撤回して、改正の是非
から全仏が組織を奉げて議論をやり直すことを、再び強く強く提唱するものです。

2、これまでの拙子の提唱の立場

 拙子は、7月26日付「意見具申書」で、今回の教育基本法改悪の基本路線の間違いを、仏教
の基本埋念との関係から、以下のように指摘しました。
「今日の教育基本法改正の基本的な方向には、二つ大きな方向が主張されています。
 
  第一の方向が、いわゆる新自由主義と言われるもので、世界的なグローバリゼーションの
大競走代に生き残りをはかるには、教育に能力主義を大々的に取り入れるべきだとするもの
です。少数の能力のある者に資金を注入して特別なエリート教育をし、その他の多数は柔軟な
働き手としての教育をしようとするものです。この方向は、一部に既に学区制の廃止と少数の
エリート校の養成や飛び級その他の制度として、先取りが進められていますが、こうした方向
をもっと大々的に全国に及ぼそうとするものです。
 第二の方向は、「戦争のできる国家・国民」を目指す教育を可能としようとするもので、日本
人としてのアイデンティティーや愛国心と公共への奉仕精神を植え付けられるように教育基本
法を改正しようとするものです。これも既に国旗と国歌の教育現場での強制と修身教科書とも
言われる「心のノート」の配布、奉仕活動の義務化などによって、現場での既成事実化が進め
られていることですが、この方向をはっきりと明確に全国的に進めようとするものなのです。
 しかしこの二つの方向は、仏教徒の基本的な教え、もちろん全仏のとる数えでもありますが、
それと全く反対の方向を向いていることを、ここで強調しておくペきでありましょう。
第一の方向は、総ての人間に仏性の存在を説き、総ての人間の平等な救済を説く仏教徒の
基本精神こ反する、人間の差別と選別を進めるもの、人権尊重の現行教育基本法の埋念とも
全く反するものなのです。
 また第この方向は、戦前と同質の偏狭な愛国心を説くもので、仏教徒としての国際性と、世
界とアジアの人々の国境を越えた交流と共生の教えに反するものとなっているのです。もちろ
ん現行教育基本法や現行憲法の理念とも明確に反するものとなっています」

3、「宗教的情操の涵養」が強調される時代とは
 
  今年3月20日にまとめられた中央教育審議会の最終答申では、「人格の形成を図るうえで、
宗教的情操をはくぐむことは、大変重要である‥・今後その一層の充実を図ることが必要であ
る・」と明記され、「宗教的情操の涵養」が教育基本法改正の方向性の中に明確に位置付けら
れました。(答申、第2障、2(5)のA)>
  イラク派兵の直前という時期ではありますが、平和の続いた戦後日本にあっては「宗教的情
操の涵養」という言葉は、一般論としては、何となく誰でもが、ことに宗教関係者であれば、うな
ずいてしまいそうな、フレーズです。
 しかし、戦前の日本において、天皇制国家への忠誠心を中心とする国家神道思想を普及教
育し、諸宗教を対外侵略戦争に動員し、戦時下で国民総てを総動員するうえで、最も有効な用
語として使われたのがこの「宗教的情操の涵養」という用語でした。
 その証拠はいくらでも挙げることかで睾ます。その資料を紹介しましょう。
 拙子の手元に、あの第二次世界大戦の戦時下の資料かあります。それは、昭和19年8月に
文部省に設置された戦時下「宗教教化方策委員会」に関する資料です(後記注参照)。手元の
資料には、同委員会の委員であった「大谷螢潤師」の印鑑が押されているもので、第1回から8
回までの総会議事録3冊、その間の特別委員会議事録4冊、そして5月の第3回総会で纏めら
れた「宗教教化活動ノ強化促進ニ関スル答申」1冊からなるものです。 (なお、大谷螢潤師が
戦後、日中国交正常化以前に、中国人俘虜殉難者遺骨送還事業に邁進されたのは、こうした
ご自身の戦時中の戦争協力への反省に立たれたからだったことに、今日改めて注意を向ける
必要があるでしょう。)
 昭和19年といえば、日本の敗色がようやく政権上層部には明らかになりかけた時期と言って
いいでしょう。しかし大部分の国民は、敗色のことなど知るよしもありませんでした。そのなか
で、政府と軍部は宗教界の最高位の人士の協力を得て、いよいよ根こそぎ国民を総動員する
ために、最後の手段としてなりふりかまわずに、宗教の総動員を考え実行する方策を練ったの
でした。ここで、その詳細な内容を紹介している余裕はありません。しかし、どうしても、引用し
ておかなければならい項目があります。
 それは、答申のうちの「宗教教化ノ方法ニ関スル事項」の、「学校二於ケル宗教教化ニ関ス
ル事項」の部分です。(以下では、カタカナをひらがなに変えて引用します。)

1、教授要目・教科書等の作成にに当りては宗教に関する認識を深め、宗教的情操を涵養せ
  しむる様一層留意すること。
2、教員の宗教ないし宗教文化に関する認識を深め、宗教的情操の涵養を図るため適当なる
  方法を講ずること。
3、その他学校に於ける宗教的情操の涵養に付ては昭和10年発普第160号文部次官依命通
  牒の一層有効適切なる運用に留意し、もって学生・生徒・児童の宗教的関心ないし欲求に
  対し、益々これが啓培を図ること.
4、宗教関係学枚中には、どうもすれば、思想上注意を要すべきものなきにあらぎるに鑑み、 
  戦時下特にこれが指導監督を厳にすること。
 
  ここでは、お分かりの通り、繰り返し「宗教に関する認織を深め」ることが要求され、また繰り
返し「宗教的情操の涵養」を図ることが強く求められていたのです。
 戦争の真っ只中にあってこそ、軍団主義教育の柱であった「宗教の言忍識教育」つまり
は「宗教知識教育」が必要とされ、また「宗教的情操の涵養」が強調されたのでした。
 それは何故でしょうか。その理由は、国民の精神を戦争目的・侵略戦争目的のために総動
員しようとした当時の政治権力にとって、宗教界こそが、その国民教化のために動員しうる、ま
た頼るべき最後の組織機構であったからにほかなりません。
 こうして、戦後の教育基本法制定時に「宗教的情操の涵養」の用語か排除されたのも、
この言葉の軍国主義との特別な関係からでした。
 歴史は繰り返すとも言われています。しかし我が国の多くの国民と、近隣諸国の人々
のうえに多大の損害をもたらした、あの過去の悲劇は繰り返してはなりません。
 イラクへの自衛隊派兵が本決まりとなり、また新たな「戦死者・戦没者」を祭る「国
立追悼施設」を造ることが答申されている今日の情勢の中で、政治権力が「宗教的情操の涵
養」を強調する時代とは、何なのかを、改めて問いただしてみる必要があると考えます。
注・戦時「宗教教化方策委員会」要員には、大谷螢潤師の外に、以下の当時の教界の錚々た
る方々が参加していました。金子大栄、大森亮順、足立道源、奥村洞麟、朝倉暁瑞、
宇野円空、富田満、岡田戒玉、安藤正純(敬称略).

4、中外日報10月9日付「社説」の重要な視点
 
  中外日報10月9日付「社説」は、重要な視点を提供しています。
同社説は、「現実見据えた宗教教育論を」として、「宗教教育がなおざりにされたから、社会が
駄目になったのだというような実証不可能な主張を掲げて宗教教育の必要性を訴えても、社
会の大半は耳を傾けないであろう。」「宗教教育の現実的な有用性を主張したいのなら、自由
に宗教教育の行なえる宗教系の学校における教習の実態と結果を調ペてみる必要がある。た
だ残念ながら、宗教系の学校の生徒には公立学校の生徒と比べて、宗教教育の成果が顕著
に観察されるというデータは見出し難いようだ。」
「今までの宗教教育論とは異なった発想が必要」「理念先行ではなく、現実を見据えた、
多くの人に受け入れられるような宗教教育論を展開しなければ、結局、何も変らないことになっ
てしまうだろう。」と同社説は締めくくっています。
 こうした視点は、大変に重要であると思います。
「公教育の場における宗教教育推進が時代の要請である」と全仏の中の一郎の推進者らは唱
えています。しかし、果たしてそうなのでしょうか。何を根拠に「時代の要請」と言うのでしょう
か?
 中外日報社説は、「社会が駄目になった」原因は「宗教教育がなおざりにされたから」
だと言っても、「社会の大半は耳を傾けないであろう。」と指摘しています。
 実際に宗教系の学校こおいても、「生徒の家庭の所属する宗派が多様であること」を第一の
理由にして、また、文科省の押し付けるカリキュラムに翻弄されていて、「宗派教育はおろか、
宗教知識教育も一切手付かず」なのが現状でしょう。この意味では、宗教系の学校こおいて
も、公立学校とほとんど変るところのない教育をしている現状なのです。「宗教教育、特に宗教
知識教育を公教育の現場でも推進すへし」、と言っても、「それでは宗教系の学校において
は、どのようにやっていますか?」、と問われた際に答られるデータを持ち合わせてはいないの
です。
 その意味では、先ず全仏や傘下の教団宗派が、今積極的に取り組むペきなのは、教団宗派
の系統に属する「宗教系の学校においての、宗教教育ないし宗教知識教育の現状と問題点」
について、体系的に現状分析と今後の可能性についての研究に取り組むことではないでしょう
か。
 そうした研究の結果として確かなデータを積み上げたうえで、「公教育において宗教知識教育
が可能であり必要であり、かつ有用である」との結論を得たならば、その結果を中教審に求め
るのもよいでありましょう。
 ところが、そうした研究の全くないままに、まして宗教系の学校においても、宗派教育はおろ
か、宗教知識教育も何ら手付かずであるような現状から、いきなり中教審に「公教育の場にお
ける宗教知識教育」を求めても、何らの説得力もないのではないでしょうか。
 ところで全仏は、いつ決めたのでしょうか。昨年(平成14年〉の12月14日には、全仏を代表し
て石上智康常務理事が「一日中教審」公聴会に出席して、「意見発表」を行ない、教育基本法9
条の改正を強く主張したのでした。
 また平成15年2月17日の全仏「常務理事会」では、「宗教教育推進特別委員会」の設置を決
定して、委員長に杉谷義純師を、また委員に石上智康師を選んだのでした。
 ほんの一郎の全仏内部の推進者が、中教審に「宗教知識教育推進」や「宗教的情操の涵
養」を求めて教育基本法第9条の改正を要請しても、その実は要するに「教育基本法全面改正
(改悪)推進」の一翼を、全仏に担わせようとする意図が、衣の下に見え隠れするだけではない
でしょうか。 、

5、全仏は「加盟教団宗派の上部組織・司令塔」か?
  
  報道(中外日報、9月20日)によりますと、真宗大谷派の宗議会の多数有志(全65人中30数
人)が、「教育基本法改正に対する働きかけの停止を求める」要請文を全仏に提出したと報じ
られています。
 同記事によりますと、「要請文は、文部科学大臣の諮問機関で教育基本法のあり方を論議
する「中央教育審議会」に疑問を投げかけるもの。「宗教的情操の涵養は尊重すべきだ」との
立場から、同法改正に賛意を表した全日仏に、態度の見直しを求めた。いじめや不登校、学
級崩壊などの原因が教育基本法にあるという、中教審の論議は短絡的とし、同法の改正は
「戦争をする国を支える人づくりこそが、真の目的ではないか」と危惧の念を表している.」と伝
えられております。
 この真宗大谷派の要請文の内容は、拙子の「意見具申香」の趣旨と全く同様と言っても過言
ではないものと思います。
 全仏は、何よりも「加盟教甜宗派の合意」を前提にして活動する団体であるはずです。
 全仏は、基本的には「加盟教団宗派の全会一致」を前提にして活動する団体であるはずで
す。何よりも、重要な案件・争点のある案件については、この「全会一致」を前提にして行動す
べきでありましょう。
 全仏は、また「加盟教団宗派の上部組織・司令塔」ではありません。
 全仏は、また「全一仏教運動」という「崇高な理念・目的」は掲げられているものの、
「加盟教団宗派を解体して参加した組織」でもないのです。
 そうであれば、当然に前記のように、全仏は「加盟教団宗派の全会一致」が前提とな
るものです。
 しかし、今回の「教育基本法改正〈改悪〉問題」についてみれば、既に有力な加盟教団である
真宗大谷派の宗議会議員らから、前記のような要請文が提出されたという一事をもってして
も、「加盟教団宗派の全会一致」の前提が崩壊していることの証拠ではないでしょうか。
 それだけではありません。
 先に拙子は、10月1日付で「教育基本法改悪推進政策の中止を」と思して、全仏あての「意見
書」を出させていただきました。
 同意見書の中で触れましたように、「宗教教育推進特別委員会の杉谷義鈍重委員長や石
上智康委員らは、「全仏加盟の有力11教団宗派の宗務総長ら」を個別に訪問して、改めて特
別委員会への賛同を取り付けることとなった」ということ自体が、この問題での「加盟教団宗派
の全会一致」の前提が崩壊していることの、何よりの証拠ではないでしょうか。
 このような根強い有力な反対意見があるのに、何故それらを無視して教育基本法改悪推進
の立場を、現在の全仏の一部指導者は強行しようとするのでしょうか。
 改正の是非から議論をしなおすことに、何故できないのでしょうか。全く納得がいきません。
全仏の一部指導者は、最近の戦争のできる国家という政治権力の意向に、積極的に迎合して
いこうとするもののように思われてなりません。
 何故なのでしょうか。何故、かくも強行に教育基本法改悪推進政策を進めようとするのでしょ
うか。戦前の「大日本仏教会」と同様に、全仏を上意下達の「加盟教団宗派の上部組織・司令
塔」にしたいとする意図があるのでしょうか。
 全仏と言っても、実質的な中枢・常務理事会を担っているのは、理事長と常務理事2名を送り
出している教団宗派であり、その教団とは、現在理事長を出している曹洞宗と、浄土真宗本願
寺派、真宗大谷派、浄土宗の4つの教団だけです。その余の教盟宗派等は7つでそれぞれ1名
の常務理事を送り出して合計で7名の常務理事ですが、4つの教団の常務理事数9名よりも少
ないのです。ですから、常務理事会の構成では、4つの教団の意向が大きく影響することとなっ
ています。その中でも、意見の強い者が他を圧倒することも有り得る機構なのです。ある特定
の問題の多少なりとも専門家として意見を出されれば、それを吟味するのでもなく、大賛成とな
ってします危うさを持った機構であると言わなければなりません。
 いずれにしても、何故かくも強行に教育基本法改悪推進政策を進めようとするのでしょ
うか。その理由を、全仏の現在の指導者は、公開の場所で答る責任があると思います。

6、石上智康師は、何故「国籍のある宗教教習」を主張するのでしょうか
 
 石上智康師は、先に全仏の外部で「新しい国立追悼施設」を造るために、清水雅人氏らと組
んでその中心となって奔走したことで知られています。靖国神社とは別に近未来の戦没者を追
悼する為に「新しい国立追悼施設」を造る必要性が、イラク派兵との関係でも急がれていま
す。
 こうした時期に、石上智康師は、3月にまとめられた中教審の最終答申内容が、まだ生ぬる
いと批判を展開しています。
 その批判は、最終答申の「宗教に関する寛容の態度や知識、宗教の持つ意義を尊重す
ることが重要」との下りについて、「無国籍の宗教教育の根拠規定になる恐れがある」と批判し
て、「無国籍の宗教教育」ではなく「国籍のある宗教教育」をと主張しているのです(中外日報、
7月24日)。
 しかし、「国籍のある宗教教育」とは、何を意味しているのでしょうか。
 戦前の我が国では、前記の資料にもありますが「我が国の宗教は皇国の道に則りて、各々
立教の本義に基づき国民を教化し、もって皇運を扶翼し皇国無窮の発展に貢献するを、その
本旨とす」ということが、特に強調されてきました。仏教についてみると「皇道仏教」とも呼ばれ
てきたものです。
 石上智康師の主張する「国籍のある宗教教育」とは、そのまま戦前の「皇道仏教」に舞い戻
ろう意図するのものではないでしょうか。

7、戦後の信教の自由、言論の自由の中での、仏教徒の責任
 
  日本の近代国家、明治維新以後の宗教、なかんずく宗教教育においては、天皇制絶対主
義教育に反するような宗教教育は、全く許されてこなかったものです。
 そもそも敗戦までは、日本の近代国家においては、信教の自由は保障されていなかったと言
っていいでしょう。政治権力が宗教の上部に君臨していた時代にあっては、そのような時代に
宗教ないし宗教者が侵略戦争に協力したとしても、ある意味では弁明の余地があったかもしれ
ません。そのような社会では、公然とは釈尊の不殺生の教育は行ない得ないことだったので
す。
 しかし、現在はそのような時代ではありません。
 自らが政治権力に迎合して釈尊の教えを捨てない限り、釈尊の不殺生の教えを貫き通すこ
とが、今のところ制度上も可能な社会です。
 釈尊の不殺生の教えは、過去の日本ではもちろん、現在の日本においても国境を越えた教
え、人類の教えであり、憚ることなき「無国籍の教え」「無団結の宗教教育」に外ならないもので
はないでしょうか。
 それを殊更にこの時期に、石上智康師が「国籍のある宗教教育」を説くのは、やはり同師が
「国を愛する心、国を愛する仏教」を強調したいからではないのでしょうか。
 石上智康師は、政権連立与党が「戦争のできる国家」を日指しているこの時期に、「時代の
要請」の先駆けとなろうとしているのでしょうか。
 石上智康師の主張する「国籍のある宗教教育」を説く道は、戦前の「大日本仏教会」と同様
に、仏教界をして、「高度国防国家樹立の一貫」たらんとする方向に、堕落させる道ではないの
でしょうか。
 そのようなことは、二度とあってはならないと願いっつ、「今全仏がすペきなのは、釈尊の不
殺生の教えに立脚して、イラク派兵に恐怖している自衛官らとその家族を救うために、ひいて
は罪なきイラク国民を救うために、全仏としてイラク派兵に絶対反対を表明することです」と付
け加えて、今回は筆をおくことといたします。
 全国理事会において、理事各位が釈尊の不殺生の数えに立脚して、忌憚のない意見を真摯
に述べられて、今日の全仏の危機を回避されんことを、心から願うものです。
 時節柄、皆様のご自愛を心よりお祈り申し上げます。
                                     合掌

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