10月31日 市民講座 「転落と再生の軌跡」

中川勝(証言の要旨)



1)生い立ち
 私は百姓の三男坊として1922年に生まれました。当時の世相として「僕は軍人大好よ・・・」
というような歌が子供の間で歌われていた中で育ちました。小学校に入ってからは「天皇に忠
義をつくし、親に孝行せよ」という教育勅語に基づいて、学校の「修身」という科目で軍人の話を
教えられた。だから、兵隊になるのが当然と小さい頃から考えていた。小学校を卒業して17歳
のときに小年航空兵になろうと思って親に言ったら母親に止められた。呉の海軍工しょうに入
っが、戦況の激化の中で、少しでも早く軍隊に入った方がいいんじゃないかと考え、徴兵検査
を1年早く受けた。1941年12月に広島で入隊し、翌年の3月に39師団231連隊として、宇
品港から中国へと出兵した。

2)中国の戦場で(三光作戦)
 現地教育の仕上げは、中国の農民をスパイという名目で引っぱって来て刺突することであっ
た。野戦では、中国農民の食料を奪い、家具を薪にして、農民を追い出して宿営した。大隊本
部付きの時の1944年6月に、不審な農民が連れて来られた。情報係の取り調べに私も参加
し、「スパイだろう」と拷問し、農民が動けなくなったので突き殺して埋めた。 1945年3月のジ
ョウハン作戦では、河を渡って逃げようとする1500人くらいの兵士、農民を隊長の命令下、銃
撃して殺した。又、ナンショウの部落で、「家を焼いてしまえ」という命令下に民家に火をつけて
歩いた。
 日本軍の物資調達は、侵略しているので現地調達であった。どんどん作戦で進んで行くので
農民のものを奪って調達した。
民家を荒らしているときに女性がいると、強姦して殺すのが常だった。各部隊には慰安所があ
り、朝鮮人、中国人の女性がいた。
 これらのことが天皇制軍隊の本質を表していると言えます。

3)敗戦後(再生への道)
 1945年の敗戦によって私はソ連で5年間の労働に従事した。そこでは学習組織が作られ、
私は初めて哲学というものを知った。社会の発展法則というものがあり、帝国主義段階におけ
る戦争、植民地支配と市場の再分割ということを聞かされ、私達が戦争に利用されたんだとい
うことを知ることができた。
 1950年7月にソ連から中国に移監され、戦犯として撫順戦犯管理所に収容された。管理所
では中国政府は「戦犯といえども人間であり、人権を尊重しなければならない」という人道的政
策を与えてくれた。日本人としての生活を重んじて、白米、栄養に富んだ副食を食べさせてくれ
た。毎日2時間以上の運動、病人には診療、体育祭等をひらいてくれ、生活に潤いを与えてく
れた。
 犯罪行為を反省していく上での大きな過ちは、「上官の命令でやったんだから私達に大きな
罪はないんだ」という考えがあり、「自分がやったんだ」という考えになかなか切り換えれなかっ
た。討論し、学習し納得出来るようになるまでには相当な月日がかかった。4)明日に向かって
 過去の歴史に学び、将来の日本が歩むべき道探求して行かねばなりません。世界全体の平
和と安全、そして繁栄が末永く続くように、一歩でも半歩でも前進するように努めなければなら
ないと思います。
 しかし、現在の日本は再び侵略戦争に向かおうとしています。自民党は言うまでもなく民主党
も論憲という形で改憲の側に立っています。この二大政党になったとき、国民の憲法への意志
は正しく反映されているでしょうか。私達は選挙の中でイラクへの派兵反対、有事法案の法制
化反対、改憲反対の争点化の努力をしなければと思います。
 国民保護法案等の有事5法案も、衆議院憲法調査会も来年の通常国会で方向が出されると
言われています。このような観点に立つと、今度の選挙がどれほど大きな位置を持つかは明ら
かです。正念場に立っています。

 横山司之(証言の要旨)

 

 私は1921年の生まれで、今年82才になります。三次中学、広島師範学校を卒業して、軍
人として中国を侵略しました。敗戦後、ソ連の捕虜としてカザフ共和国で労働し、1951年に中
国へ戦犯として移管され、56年に12年ぶりに祖国の土を踏むことができました。以後、戦争
というものの罪悪性を語りながら、60才まで教壇に立たせてもらうことになりました。そういうこ
との中で感じることは、一番目に軍人としての体験、二番目にソ連のロシア人との接触の中で
感じたこと、三番目は中国の撫順戦犯管理所で感じたことを話させてもらいます。
 まず、軍人として中国で何をしたのか。(虐殺のスライドを使って説明)
 1941年、20才で徴兵検査を受けて入隊して、中国へ渡ってからどんな残虐なことをしたの
か。中国の人は日本兵のことを「日本鬼子」(リーベンクイズ)と呼びました。その典型的なもの
が三光作戦です。殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くすを非常に憎みました。二番目に南京の大
虐殺です。三番目は731の虐殺です。初年兵が必ず通らなければならないのは中国の生きた
人の刺突でした。将校は首切りです。私も将校として若い青年の命を絶ちました。そのうちに
平気で出来るようになりました。兵隊は中国の家の構造をよく知っていて目ぼしい物をとりまし
た。空襲による虐殺、強姦して殺す、焼き打ちで殺す。占領した地域に日の丸を上げ、侵略を
正当化する。

 (戦犯管理所のスライド)
 ここは元は日本が作った中国人監獄の地でした。午前中は学習、午後は運動。バレーボー
ルをしています。運動会のレクレーション、社会見学、天津から乗船して日本に帰国。 人を殺
すことがなにともなくなるのは、日本の教育の中で培われてきたように思います。1)絶対主義
者。どうしても言われた通りにしなければならないということ。
2)民族の優越性。神様が海の水から創った国。
3)他民族に対する軽蔑心。中国、ロシアに対して。
 教育が大きな位置を占めていると強く反省しました。軍人になったときに、徹底的な人間性の
脱却が取り上げられていった。教育勅語・軍人勅語によって絶対的に守らなければならないも
のが作られて行った。天皇に対する絶対の念。私の父親は小学校の校長をしていたが、天
皇・皇后の写真の保管が悪くて雨漏りで汚れ首になりました。私が小学生の時には父親は無
職でした。教員になった時に教えられたことは、天皇・皇后の写真は絶対的に守れと言うことで
した。
 本音と建前の違い。「大東亜共栄圏」「五族共和」これは日本が君臨して思うとうりにやる為
に言った。満蒙開拓青少年義勇団。その満州の土地は、中国の人の土地を奪ったものであっ
た。
 今日の有事をアメリカと決めている状態が、私の中国侵略状態に似ている様に思えてならな
い。後方支援と言う言葉が使われている。アメリカはイラクはまだ戦場だという。日本は戦場で
あっても直接生命の危険のない所で活動するという。前線の30メートル後方でも後方です。ご
まかしによって何とか日本の国民を戦争に動員しようとしています。徴兵の動きが作り出され
てきます。
 最後にロシアでの話をします。厳しいロシアの規則もありますけど、私はフリーパスで収容所
から作業所に行くことができました。人間対人間の繋がりがあったように思います。 中帰連の
50年史を作成出来たことに感謝し、戦争絶対反対、政治とか何とかいうのではなく、これだけ
は守らねばならない。
(文責 山川)


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