中国電力梶w高暮ダム(日本国広島県比婆郡高野町)』
強制連行・強制労働犠牲者
謝罪追悼式
謝罪碑除幕式
納骨式
2003,8,22.大韓民国 忠清南道 天安市
国立墓地《望郷の丘》
『高暮ダム強制連行を調査する会』
(日本国 広島県)
ごあいさつ
本日、ここ大韓民国忠清南道天安市 国立墓地《望郷の丘》に、日韓両国から多数の支援
参列者を、お迎えして、かねてからの念願であった『謝罪追悼式・犠牲者納骨式・謝罪稗除幕 式』を執り行うことができることを心よりありがたく感謝申し上げます.
1940年3月15日、山深い中国山地に位置する広島県(ひろしまけん)比婆郡(ひばぐん)高野町
(たかのちょう)の、1200m級甲山問を流れる神野瀬(かんのせ)川を水源として、双三郡君田 (きみた)村櫃田(ひつた)を経由し、森原〈もりばら〉までの、およそ30キロの山峡の一角に、 中国電力〈当時の会社名:日本発送電株式会社=略称:日発(にっぱつ)〉が、渇恪゙組(おく むらぐみ)に施工を請け負わせて、当時、中国地方最大と言われたイ高暮〈こうぽ〉ダム」の起 工式が行われました。
この高暮ダム建設工事は、.1945年8月の敗戦を挟んで、12月までの、前後約十年という歳
月を要して完工しました。
その問、1940年の夏から秋にかけて、朝軒半島から多数の労働者が送り込まれ、苛酷な労
働を強いられたことは既に多くの人に知られています。当時を回顧する住民によると「毎日の ように、トラックに30人も40人も乗せられて運ばれて来ました.」と聞いています。
我々の会は、当時の労働者数の的確な実態をはじめ、労働実態の把握のために、幾度か、
関係企業を訪れ、事実を確かめようとしてきましたが、企業側は口を噤んだまま、いまだに回 答を拒み続けています。
地域住民の方の何人かからは、「半島人〈日韓併合以後の朝鮮半島出身者を当時は、侮蔑
の意を含んだ“半島人,,とか“半島”と呼んだ〉の数は、2000人くらいはいたんじゃないか。」 「いや、そんなもんじゃない、5000人はいたろう。」とも聞かされてもいます。
そして、こうした地域の方々から、まさに非人道的な労働状況や、身の凍るような苛酷なリン
チの実態も聞かされて来ました。厳しい労働の中で亡くなった方々の数も、いまだにはっきりし ていません。
ただ、この地域に住んでいた方々から戴く、わずかな情報を頼りに、生い茂る潅木の山野
に、蟻牲看たちを求めて、わたしが足を踏み入れたのは、1974年の7月末のことでした。あれ から30年の時間が過ぎ去っていきました。
犠牲者たちは、拳(こぶし)くらいの石ころひとつ載せられて、この地域特有の黒土の中に眠
っておられました。その石ころひとつも、載せられていないお墓さえありました。
だれ一人合掌する人も、一輪の花を手向けることもなく・‥。
こうした犠牲者たちのご遺骨に出会う度に、ただただ手を合わせ、「申し訳ありませんでし
た。」と、言うことしかできなかったのです。
その後、こうした行動に共鳴する仲間たちとともに、今日まで、ご遺骨の調査と発掘を続けて
きました。
関係する企業の責任も、厳しく追及してきました。過去の清算を放置し続けて来た国家と企
業が、人間性回復の基本に立ち返り、『企業の手よる真実の公開』『国家と企業の責任の明確 化』『過去に遡った未払い賃金を含む労働補償』に、積極的に取り組むよう、求めたわたしたち の追及に、企業は、「国策であった」の一点張りで、責任を認めようとしません。今後も息の永 い闘いを続けなければならないと考えています。
わたしたちは、他民族の人権を揉潤した植民地支配を厳しく反省し、二度と戦争のない、ま
た、戦争を起こさせない平和な社会の構築を観い、すべての民族の人権を保証していくため に、ここに、93年前 植民地支配を強制した1910年8月22日を記して、高暮ダム現地付近で発 掘したダム工事関係犠牲者と思われる『ご遺骨六体の納骨』『謝罪追悼式』を行い、日本人と しての心からの『謝罪稗』を建立させていただきます。
本日まで、ご支援いただいた皆様に、深甚なる感謝と敬意を表したいと思います。ありがとう
ございました。
2003年8月 22日
『高暮ダム強制連行を調査する会』 代表世話人 福政 康夫
謝罪 追悼文
朝軒半島の国土も氏族も抹殺し、形式的にも実質的にも完全な植民地支配を強制したの
は、九十三午前、一九一○年の今日 この日なのです。
あれから百年近い時間の経過の中で、日本国内では、去る五月、自民党政務調査会長麻
生太郎が、東京大学での講演の中で、性徴(しょうこ)りもなく、植民地支配下における「創氏改 名」を、『朝鮮の人が「名字(んみょうじ)をくれ」と言ったのが始まり』と言い、さらに、言うことに ことかいて、「ハングル文字は、日本人が教えたのだ」。「朝鮮半島での義務教育制度も日本 がやったのだ。」など、意図的に歴史の事実を盃曲し、植民地支配と皇民化政策を正当化する という発言。また、その直後には、悪名名高い江藤隆美が、「南京大虐殺はウソッパチだ。」な どと繰り返し、暴虐無人(ばうきゃくむじん)の論理構成をして憚(ははか)らない確信犯的(かく んはんてき〉 風潮(ふうちょう)が依然として後を絶ちません。
こうした一連の内外の状汎をみるとき、国際社会の常識を踏み躙ったアメリカの「イラク戦
争」への支持を無批判に、いらはやく表明したわが国の態度、そして今また、「イラク支援」に 名を借り、露骨に、侵略戦争をする国への逆行の道を走りはじめた昨今を、わたしたちは、心 から憂(うれ)いています。
一九三一年、朝鮮半島を足場にして、中国大陸への「侵略」の魔の手を伸ばし、九月十八日
には、「満州事変」を起こさせて以来、とどまることのない民族抹殺政策をとりつづけてきまし た。一九三九年になると、朝鮮半島での「募集(ぼしゅう)」に始まり、一九四二年の「官斡旋 (かんあっせん)」、一九四四年以降の「徴用(ちょうよう)」と、名を変えた『強制連行』の罪科 (ざいか)を重ねて来ました。
このように、戦争完遂(せんそうかんすい)のための労働カとして一九三○年以降の十五年
間に、海を渡らせられた朝鮮人の人ロは、一九四五年八月の敗戦の時点では、二百三十六 万五千二百六十三人にも達していたと言われます。
当時、侵略戦争の魔の子は、北は凍るアリューシャン列島から、南は灼熱(しゃくねつ)の南
太平洋の島々まで拡大しており、この戦場のすべての地のすみずみにまで、朝鮮人の姿を見 ない所は無かったという事実も明白になっています。
更に、特筆して許すことのできないことは、小学枚を卒業したはかりの、少女までも騙〈だま)
して駆(か)り集め、強制的に『性奴隷』として、これらの戦場に連れ去り、敗戦と同時に戦場に 捨て去ってきたことです。
女性の貞操観念を至上のものとする朝鮮民族古来からの道徳律を侵し、人間の尊厳を奪い
尽くしててきた日本政府は、いまだにその非を認めようとしないばかりでなく、一部勢カの存在 を利用して、教科書からこの事実を抹消させるという、限りない恥辱と罪科を重ねていることで す。
わたしたちは、今はだれも足を踏み入れることの無くなった中国山地の山間〈やまあい)に、
わずかな情報をもとにして、朝鮮半島からの強制連行・強制労働に関する調査をし、犠牲者の ご遺骨の発掘掘を続けてきました。
満々と水を湛えた『高暮ダムム』周辺や、『沓ケ原町政ダム』を見下ろす生い茂った林の中に
眠る、犠牲者の土にまみれ、砕けたご遺骨に対面するとき、詫びる言常の無いことを幾度も体 験しました。
一本の墓標(ぼひょう)、手向(たむ)ける一輪の花すらも無い、右ころひとつが載せられた、
いや、その石ころも満足に載せられていない、あなたたらの墓前に、わたしたちは、どのような 言常で詫びれは、許していただけるのか分かりませんでした。
ほんとうに永いあいだ、あなたたらを苦しめて参りましたが、本日ここに、六体のご遭骨をよう
やく皆さまの祖国ににお返しできました。
このご埋骨の中のお一人、「沈 相出さん」の亡くなられた年月日から算定しますと、実に、六
十一年の永きにわたって、異国の奥山に棄てられていらっしゃったのです。
我々日本人が、あなたたらに与えた、このような過去を決して許していただけるとは思いませ
ん。
あなたたちの帰りを、どんなにか、待ら詫びたであろう今は亡きご両親や、奥様たち、そし
て、今も、どこかで帰りを待っておられるかもしれない子どもさんたちのことを思うとき、わたし たちのカ不足のため、こんなにも永い時間がかかったことを、心よりお詫びいたしよす。
今日、ここに、わたしたら極く一部かも分かりませんが、日本人としてのお詫びの「証し(あか
し)」として、皆さまを祖国へ返還させていただき、併せて、ここ、国立墓地《望郷の丘》 に『謝 罪稗』を建立(こんりゅう)させていただき、謝罪といたしよす。
今日まで、関係企業である「中国電力」「奥村組」へ、この式典への謝罪参列と、関係資料の
開示などを求めて参りましたが、頑(かたく)なに拒否しつづけています。
本日、ここに謝罪追悼式・納骨式・謝罪碑除幕式を執行するにあたり、今後、アジアの、い
や、すべての人類が共有できる 《歴史認識》を確立し、再び強制連行・強制労働の犯罪を起 こさせない社会を構築する決意を、あらためて、お誓いし、心からの謝罪と追悼の誠を捧けま す。
二00三年 八月二十二日
高暮ダム強制連行犠牲者謝罪追悼式
高暮ダム強連行を調査する食
代表世話人 福 政 康 夫
代 読 鍋 島 昭 登
謝罪追悼の詩(うた)
詩 福政康夫
遠く古里を離れ 山深いここ中国山地の山峡(やまあい)に
さながら獣(けだもの)のごとく 送り込まれたあなたたち
幾度(い〈たぴ)声を限りに叫んだであろうか
古里にアボジq名をオモニの名を
幾度(いくたぴ)か悲しく呼びかけたであろう
遠い古里の吾子(あこ)の名に
我が身が いずくの地にあるのかも知らぬままに
灼熱(しや〈ねつ)の夏 ささくれだった汗の手をかざし
譲る冬の夜半(やはん)満天(まんてん)の星空に向かって
幾度(い〈たぴ)血を吐く思いで叫んだであろうか
「アイゴー アイゴー」を
幾度(いくたぴ)か夢に見たであろう
懐かしい古里の山河(さんが)を
いつの日か まみえる望みもないままに
唸る(うなる)ケーブルウインチの轟音(ごうおん)に
かき消される友の声
注ぎ込まれる生コンと共にかき消された友の資
声も無く 消え去った古里の友の姿
生き地獄の如き ダム工事現場
今 聾(そぴ)え立つ“白骨ダム”に残るあなたの血の足跡
幾度(いくたぴ)か叫んだチオ(愛妻)の名を
幾度(い〈たぴ)呼びかけたかチング(友)の名を
ふたたび返る言葉のないままに
ある者は苦しさに ある者は病(やまい)に倒れ
生命(せい)有る隈り同胞(はらから)を求めつつ
ダムサイトの黒土(〈ろつち)に横たわり
その身を見知らぬ異郷(いきょう)に棄て去られ
記(しる)した名もない石くれを
ただひとつ載せられたあなたの墓標
人の死にあまりに遠い土にまみれた白骨(しら馳)に
詫びることばも 手向(たむ)ける香華(こうげ)もないままに
わたしには聞こえる あなたの声が
父母を呼び同胞(はらから)を求めるあなたの声が
百年(ももとせ)の昔あなたの祖国を奪い古里を奪い
そして あなたを奪ったわたしたち
今どのような言葉を重ねて詫びようとも
あなたは帰らない
人間(ひと)として
人の世の有る限り 詫び続けることしかできないわたし
「ヨンソハンダ(許す)」
という言葉を決して聞けないままに
「ヨンソハンダ」
・ という返事を永遠(とわ)に聞けないまま
『高暮ダム強制連行を調査する会』のあゆみ
1989.3.24 高野町西教寺裏山で一体発掘
1994.4.23 高事ダム堰堤上流山林で一体発掘
1994.10.30 高等ダム堰堤上流山林で一体発掘
1996,1.26 《高暮ダム強制連行を調査する会》発会
1996.9.17 第一回 実態調査のため漉韓
1997.4.20 第二回 実態調査のため渡韓
1997.8.26 君田村沓ケ原の山林で三体発掘
1998,5.21 第三回 実態調査のため渡韓
1999,3.14 第一回「謝罪追悼式(三次市 西善寺)」執行
1999.3.24 第四回 実態調査のため渡韓
2000.3.12 第二回「謝罪追悼式(三次市 西善寺)」執行
2000.4.17 納骨と謝罪碑建立申請手続きのため渡韓
2000.6.12 第五回 実態調査のため渡韓
2000.10.2 謝罪碑建立手続きについて渡韓
2001.8.19 第三国「謝罪追悼式(高暮ダム堰堤)」執行
2002.8.25 第四回「謝罪追悼式(高暮タム堰堤)」執行
2002.11.9 納骨と謝罪碑建立手続きのため渡韓
2003.4.16 納骨と謝罪碑建立の手続き詰めのため渡韓
2003.7.6 第五回「謝罪追悼式(高暮タム堰堤)」執行
2003.8.22 『謝罪追悼式、謝罪碑建立除幕式、納骨式』を、韓国 忠清南道
天安市 国立墓地《望郷の丘》に於いて執行
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