「自治会神社」が下支えする「改憲」意識とその狙い
   ― 「日の丸」「君が代」・教育「改革」・「靖国」・「改憲」の先にあるもの―
                     
                                田中伸尚 01/2/17 於:本願寺備後会館
目  次
T.「刷り込み」が生み出す他者感覚  の喪失
 
 §新入生の宿題

 §運動会での父と娘
 
 §「国旗のある自由画コンクール」
 
 §「良き生徒」10ヵ条―「国旗当番」
  
 §成人式での「君が代」

 §カラオケ―「君が代」静聴。カラオケに入  った「君が代」

 §家庭に配られるリーフレット―北海道や日  高。自治会通じてリーフレット配布。
 
 §「刷り込み」の剥がれ―「出会い」によっ  て反対意見。少数意見の存在を知る。

 §子どもの権利条約―意見発表権


U.8100万の意識
 
 §神社の祭りに反対するような奴は日本人じ  ゃない
 
 §市民はみんな氏子なんだ
 
 §「神様に反対なら、神様のいないところへ  出 ていけ」
 
 §「村民の心のふるさとがなぜ」
 

 §神社は共同体社会の中心―場で、イベント  は伝統・習俗・文化である
 
 §教育「改革」で強調される伝統・文化―教  育「改革」の提言中「伝統文化」強調


V.「ウソを生きる」

 §服従の果て
 
 §服従のメッセージとしてのスローガン
 
 §服従は思想・良心・信教の自由の「墓場」
 
 §不服従者への攻撃
 
 §「改憲」のもう一つの狙い―戦争の出きる  国 民づくり
 

W.「政治の靖国」「民衆の靖国」そし て戦争責任

 §新たなる死者の受け皿としての「靖国」再  燃
 
 §司法的には決着
 
 §「靖国問題」が蒸し返される複合的要因
 
 §相互に支え合う構造
 

まとめ
 
 
T.「刷り込み」が生み出す他者感覚  の喪失

 こんにちは。田中と申します。今年は大変に年初からですね喋る機会が多くて、私は本職は
書く方なんですけれども、書いてる間がないくらい忙しいんですね。北海道へ3回行ってです
ね、遂4、5日前には山形の山奥へ行って、やっぱり喋ってきたんですけれども、山形では物
凄い雪であんな雪は初めての、北海道は寒かったんですけれども、たいして雪は「今年多い」
という事だったですけれども、日高の方では海が凍ってるのは初めて見たりですね。「空知の
方では何十年ぶりの雪だ」というように言われたんですけれども、でも私は福井という所に3年
近く住んでおりまして、それは何メートルかの雪も経験していまして、そう驚きはしません。山形
の小国という所は大変に雪が深くて16メートル。24時間中除雪車が狭い道路でも走り続け
る。それでもう町の予算は除雪車の費用でもう完全にパンクしてですね、県もそれから国の方
もですね「補正予算で大変だ」というような、そういう状態で、それはそれで「感動した」と言うと
変ですけれども、びっくりしました。
 同時にそこへ小国という所へ行ったのは、ある小さい高校がありましてですね、その高校で
毎年2月11日、いわゆる2・11ですね。建国記念の日に学校は休まずに天皇の問題とか、あ
るいは今日も話させていただきますけれども、日の丸・君が代の問題とかですね、そういう事を
みんなで一日中この何と言いますか、分科会みたいなのを作ってですね、それで勉強するとい
う事を今年の場合はそうです。毎年何十年、創立戦時中に創られて学校法人になったのは19
48年だそうです。建国記念の日が出来たのは1967年からですが、67年からずっと毎年やっ
ている。それこそサンケイ新聞がですね、それを知ったら右翼を先導して街宣車を回すかも知
れないと思いますけれども、あまり雪が深くて、たぶん街宣車は行かれないでしょう。そんな所
です。
 あっちこっち回って旅をさせていただいて、いろんな人との出会いをして、そこから私はいろ
んな発見なりですね希望とか、そういうものをいただいておりますけれども、今日も福山はここ
の所何回か来ておりますけれども、今の御三方の話、刮目すべき話だと思って聞いておりまし
た。それぞれお一人お一人大変なんですね。子供さんを抱えながらですね。子供さんと言うの
は、やっぱりある意味では人質のような状況下でもある訳ですから、その中で取り分け地域社
会との闘いと言いますか、それを続けると言うのは大変しんどい事だと思うんですね。そういう
話をもう殆ど断片的だと思いますけれども、私としては大変参考になったと言うか、ある感動を
持って聞かせていただきました。
 
 今日は、「自治会と神社」という事で、しかしこれだけではなくて、その背景だとか、あるいはも
っと大きな流れ、今おっしゃったように大きな流れとどう結びついているのかという事も合わせ
て、取り分け日の丸・君が代とかですね、社会にも出てきます教育改革の問題、あるいは憲法
改悪の状況なども織り込んで話をしろと大変難しい注文なんですけれども、実はお引き受けさ
せていただきました。
 話は一応4つほど柱を4つですか、5つですか用意させていただきました。
 最初、「『刷り込み』が生み出す他者感覚の喪失」なんていう事文学的な表現でもあるんです
けれども、ここでザッと上げたもの多少エピソード的であるけれども、エピソードにしてはあまり
にも深刻な問題がたくさん含まれているので、もっとたくさん実はあるんですけれども、そういう
話だけで何時間もかかるんですけれども、幾つかここで私が見聞してきた事を、あるいは伺っ
た事をですね、少し考える手がかりとしてお話したいと申します。

§新入生の宿題
 最初は「新入生の宿題」という事で、実はある有名な私立の小学校が首都圏に幾つか有名
な学校がある訳なんですけれどもが。
夏終わって秋ぐらいから、もう選抜と言うのは始める訳ですけれども、有名な私立学校で小学
校へ入る。今盛んになんですか、「お受験」というやつですね。それが秋ぐらい、夏が終わった
秋ぐらいから始まる訳なんですけれども、そこへめでたくと言うか、何と言うか、入った親御さん
の話なんですけれども、つい最近聞いた。その小学校の校長先生がですね、入学するまでに2
つの宿題を出した訳ですね。そのうちの1つが「きちっと校歌を歌えるようにしてきて下さい」。
それからもう1つが「君が代を歌えるようにしてきて下さい」。こういう宿題を出したんですね。言
われたのは昨年の暮れ入学が決まってからの話だそうですけれども、お父さんは、まだ若いお
父さんですけれども、「校歌はともかく、校歌だって学校へ行って教えてもらったらそれで本当
は良いはずだから。君が代なんてそんなもの歌える必要はないよ」というふうに思ったし、そし
て子どもにも女のお子さんだそうですと言った。ところが、お母さんの方は「そりゃ、私も君が代
なんかいやだ」と、「やっぱり歌えないとこの子が学校でいじめられるんじゃないか。『なんだ、
お前歌えないのか』というようなことを言われるのはいやだ」と、「だから、そんな長いあれでも
ないんだから、意味なんかわからないんだから、とにかく歌えるだけでも、口パクパクやるだけ
でも良いから出来るようにさせたい」と母親は言ってですね、最終的にまだ、まだその女の子
は歌えないそうですけれども、まだもうちょっと時間がありますのでどうなのか。父親の方はもう
仕事をしているから普段子どもさんと夜の遅い仕事ですから、だから接する機会がないから教
えられないと。教えようと思ってもですね。でも母親はだいたい子どもさんと接する時間が多い
から、校歌と共に少しずつ教えているんだです。矛盾を感じながらもね。
 その子はおそらくどの程度歌えるようになるかは別にしてね、学校へ行くと、学校はそういう
学校ですから当然「君が代指導」と言うのはキチッとやる。日の丸もやるでしょう。おそらく。私
立ですけれども。そうするとその子どもさんは確実に君が代を入学前から教え込まれて吸い込
まれていくという事になる訳ですね。ですからたぶん子どもさんは、先ほど「強制」という言葉が
出てましたけれども、別にそれこそこの前の国会答弁でもあったように、この前って法制化の
時にね物理的に口を抉じ開けて歌わせられることがなければ良いみたいな事を、当時の文部
大臣がですね言ってましたけれども、別に「強制」と言うのは、そういう物理的な力をもってやる
事だけが強制ではない訳で、「刷り込み」と言うのもある意味では強制である訳ですね。あるい
は場の雰囲気とかですね、いろんな要素というものがこの「強制」にはある訳ですけれども、し
かし子どもの方はですね「強制」という事を全く意識しないでそれを覚え込まされる。それが「刷
り込み」という事です。無意識にそれを教え込まされてしまうという。
そう言うのは、たまたま私が見知ったのは、その幼稚園のある私立の学校の話ですけれども、
日本全国ですね似たり寄ったりの話が、だんだんだんだんあっちこっちに出てきているようで
す。

§運動会での父と娘
 それから2つ目の例としてですね、運動会の話なんですけれども、これは学校・幼稚園によっ
ては秋になったり、春になったりしますけれども、これは神奈川県のある幼稚園の話なんです
けれども、このケースは公立の幼稚園なんですが、神奈川県のですね横浜市内なんですが、
運動会の時に準備体操と終わりの方の整理体操と言うのがあってですね、その準備体操と整
理体操の時に日の丸と君が代をそこではやった訳ですね。その時にですね、ある一組の親子
がお父さんと、この場合も娘さんなんですけれども、準備体操が終わった時に運動会の司会進
行をやっている副園長さんという女性の副園長さんがですね、親と子どもさんと両方にですね、
こういうふうに声をかけているんですね。「皆さん、オリンピック見ていたでしょ」というふうに先
ず声をかける。「帽子をとって掲揚台の方に頭を向けて下さい」って、小さい子どもですから頭
が安定しない訳ですよね。「頭をぐらぐらしない」というふうに言って、そして君が代の、これは
演奏ではなくて、いわばカラオケみたいなテープを通してマイクで流すと、客席に流すと、そうい
うスタイルですけれども、それで子どもこたちもそれから歌うことになるんですけれども、それは
日頃どれぐらい前からかわからないけれども、子どもさんたちは練習をさせられていたという事
がはっきりわかる訳ですね。
 それである一組の娘さんとお父さんの組がですね、その準備体操の時も整理体操の時もそ
うなんですけれども、お父さんはしゃがんだんですね。日の丸・君が代も嫌だから。まだ30代
半ばぐらいの人ですけれども、しゃがんだ。しゃがんでも子どもさん小さいですからね、ほぼ同
じぐらいになる訳ですけれども、高さとしては。周りを見たら誰もしゃがんでいる人はいない訳で
す。彼だけが。その娘さんもですね4つかな、5つぐらいの子だと思いますけれども、ちょっとび
っくりした訳ですね。別に事前に。彼も事前にそう言うのがあるのは知らなかったから。卒業式
や入学式みたいに式次第と言うのがあってっも「国旗○○」とか、そう言うのが入ってなかった
らしくてですねわからなかった。しゃがんだら子どもさんが非常に驚いたような顔をして、そして
みんなが歌うのに彼がしゃがんだままいるから「お父さん立ってよ」という目つきをお父さんに
向かってやった訳ですよ。言葉では発しなかったけれども、しかしお父さんは首を横に振って
「いや立たない」とというふうな素振りをして、あるいは身振りをして、君が代がなっている間は
だいたい正確には40秒と言われてますけれども、その程度1分足らずですよね。それで終わ
った訳ですね。子どもはその後お父さんに「なぜ、お父さん立たなかったの」というふうには言
わなかったそうなんですね。それはだから朝方と幼稚園の運動会ですから、そんな夕方遅くま
でやる訳ないですね。3時前に終わったらしいですけれども、その時そのおとうさんが言った台
詞なんですけれども「予想はしていたけれども、全員が立っている中で自分だけが座って君が
代がなっている間やり過ごすと言うか、終わると言うのを待つと言うのは、物凄いしんどいもの
ですね。たいへんエネルギーがいった」という事を彼が言ってました。そして「この事はやっぱり
公立の幼稚園ではあるけれども、本当は終わった後に抗議をしたかったんだ。だけども、それ
が自分としては出来なかった。だから後で手紙を書いて抗議文を出した」というふうに彼は言っ
ていました。その娘さんはもう一年年長さんをやるらしくて、もう一年あるらしいですが、だから
来年学校に入るということになる訳ですけれども、そういう形で日の丸・君が代と言うは入園式
の時にはなかったらしいですね。入園式と言うのは、まだ法制化がごちゃごちゃしていたという
事もあるんでしょうけれども、とにかく法制化ということが1つの力を持つ作用を働かせたという
事になると思いますけれども。彼が更に言っていたのは「子どもにどういうふうに伝えていって
良いかと言うのが大変難しくて、今考えている」と、日の丸・君が代についてですね、もちろん私
がどうのこうの言う事じゃなくて、彼と彼の妻がですね、家族で考えていかなければいけない状
況になっている訳ですね。そこまで今この日の丸・君が代の法制化と言うのは、個人個人を追
い込んでいるという事にも言えるかも知れません。これはもう少し何と言いますかね、遠望する
と言いますか、遠くから眺めますとですね、普通考える事をするという事は決して無駄な事では
ないというふうに私は思います。
 強制、その他、色々これに纏わる問題と言うのは大変怪しからん事ではあると思いますけれ
ども、素材をですね提供するという事になっているという事は、決して全部「100マイナス」とい
う事ではないというふうに私は思います。いずれにしてもですね、こういう形で娘さんにはです
ね日の丸・君が代と言うのは刷り込まれていくという事ですね。

§「国旗のある自由画コンクール」
 3つ目ですけれども、「国旗のある自由画コンクール」という例です。「神社新報」という新聞が
あるのをご存知かどうか、存じ上げませんけれども、大変な新聞なんですが、未だに旧字体で
書いている。この新聞をたまたま見て、ごく最近のやつです。「2月5日号」というやつです。本
当は新聞を持って来れば良かった、あるいはコピーをお付けすれば良かったんですけれども、
「国旗がある自由画コンクール」と言うのを毎年やっているんだそうです。それでここに後で回
しますけれども、先ほど出た神楽を題材にしたような絵もありますけれども、「絵画を通じて子
供たちの国旗への関心を高め、国旗掲揚の習慣を身に付けてもらおう。社団法人国旗協
会」、こう言うのがあるんですけれども。「社団法人国旗協会」と言うのは、例えば1月の2日に
皇居で一般参賀と言うのがありますけれども、あの時に行かれた方はおそらくないと思います
けれども、私は何回か行っているんですね。もちろん取材で行っている訳ですけれども、歩い
て行くと旗を配るんですね。その旗を作ったりなんかしてますね。そこで「いらない」と言うと、物
凄い変な顔をされますけれども、いつも私は「いらない」と言います。その社団法人国旗協会、
これは1960年代の初めに出来た協会で、恒例のように「国旗のある自由画コンクール」を開
催しています。今回は1236点の作品が寄せられ、その中から神社本庁トウリ賞。神社本庁
のトップですけれどもね。トウリ賞などの賞を選考、1月27日に入選作が発表されたと言われ
ます。これを見てみましたらね幼稚園とかですね、殆ど幼稚園児なんですね、書いてるのが。
賞を取ってるのが。「浦安の舞」という神楽に直接関係がある訳ですけれども、「浦安の舞」と
言うのでミシマ保育園。その子供どもさんが入所している全国敬神婦人連合会会長賞という、
「けいしん」と言うのは神を敬うと書きます。この「神」は後で出てくるんですけれども、この「神」
は神宮なんですね。伊勢神宮。伊勢神郷を神という訳ですけれども、天照大神を祀ってますか
ら、それで敬神と言われる。「お祝い事で山車を奉納し、浦安の舞を舞っている様子だろう」と
いう事で、そこで日の丸が書き込まれている。これは保育園ですよね。他にもだいたいもう小
学校1年生、一番大きい子でこの賞をもらっているのは小学校5年生ですね、これを見ますと。
ちょっと絵の巧拙については私の分野ではありませんので何とも申し上げられませんけれど
も、みんな日の丸が巧みにはめ込まれて、そしてみんながそれを何と言いますか、受け入れ
て、あるいは讃えるというような事をさり気なく子どもの目で捉えたのが書かれているんです
ね。こういうふうにして子どもは本当に小さい4つ5つ、3つ4つ5つぐらいから、この日の丸に親
しまされる。絵も書かされるという事ですよね。これはもうまさに見事な刷り込みだと。これは小
学校にもこういうふうに上がっていく。何の違和感もなく日の丸を受け入れる。日の丸の方がそ
ういう意味では君が代よりもずっと入り易い訳ですね。

§「良き生徒」10ヵ条―「国旗当番」
 4つ目のエピソードと言うか、話ですけれども、鹿児島のですね中学校、こちらの方は鹿児島
の出身の方がいらっしゃるかどうか分かりませんけれども、鹿児島の中学校と言うのは、もう
ずいぶん何十年とは言いませんけれども、20年ぐらい前からですね全小・中学校に日の丸・
君が代がいわゆる入っている状態ですよ100%。その中学校の先生に昨年聞いた話なんで
す。鹿児島に行った時に聞いたんですけれども、鹿児島には「国旗当番」と言うのがありまして
ですね、これは中学生に「国旗当番」と言うのがある。毎朝学校によって人数は違いますけれ
ども、そこの先生の学校は3人1組。朝3人、夜3人ですね。夜と言うか、夕方。揚げて降ろすと
いう、そういう国旗当番と言うのが、あるいは当番がシステム化されているんですね。朝、だか
ら早く来てこれを揚げると。それを忘れたりですね、上手に揚げられなかったりすると生徒指導
の先生に叱られると。更に雨が降ってきたら授業中でも降ろしに行かなければならない。しか
もそれが当たり前になっている訳ですね。その学校だけではないですけれども、「おおかた鹿
児島市内そうですよ」とおっしゃってましたけれども、「生徒心得10ヶ条」と言うのがあって、そ
の中に「国旗が上手に掲揚、そして降納が出来る生徒になりましょう」というふうに書かれてい
る訳ですね。
 それで私が聞いた先生はですね、そこに異動で入ってきてキャリア十数年の先生ですけれど
も、「これは国旗当番はおかしい」と、それからだいたい「日の丸・君が代はおかしい」と思って
いる先生ですけれども、鹿児島県教組の組合員でもあるんですけれども、教組はしかし全く組
織としては何も反対してませんから。彼はですね「おかしい」というふうに言って、先ず国旗当番
を止める事。それから生徒心得10ヶ条を削る事。それから雨中、つまり雨の中で授業中を国
旗を降ろすなんていう事はとんでもないから、「全部あなくしよう」という事で職員会議で提議を
する訳ですね。しかし最初の時は全然職員もですね、職員と言うか同じ仲間ですけれども、教
職員もですね同じ組合員でありながら殆ど「そんなことは」という事で取り上げてくれない訳です
ね。3年かけて漸く去年、やっと生徒心得10ヶ条から「とにかくそれをやっぱり外そう」という事
になって、そして授業中雨が降ってきて降ろすという事も、それもやめるという事もなったんだ
そうです。一応、校長はそれを受け入れた。それについて。しかし「この国旗当番を止めるとい
う事については地域の反対があるから出来ない」という事で彼は大変苦吟をしてますけれど
も、「とにかく来た当初よりは少しはましになった」と。ましと言うか、普通に近づきずつあるとい
うふうに。ただ、その最中に「法制化」というある力が加わっているので、余計に彼はしんどい
思いをしている訳ですね。
 今職員会議と言うのは非常に厳しい状況におかれていますし、それから法的な最高議決機
関でなくなったという事もあってですね、職員会議自体が単に「意見を聞きますよ」みたいな事
になっている状況があるんですけれども、職員会議で問題を提議すると他の先生方がですね、
とたんに全員俯いてしまってですね内職を始めるという。その内職は何するかと言ったら何か
試験の問題を作るとかね。そういう事をするんだそうです。「また彼が言い始めた」。そういう事
をかなりあからさまのですね「いつまでそんな事言ってるんだ」みたいな所が露骨に出すんだそ
うです。それにめげずにですね、彼は「問題を提議し続ける」というふうに言ってました。去年は
教育委員会に呼び出しを受けて、まだ処分はされてませんけれども、「呼び出しを受けた」とい
うふうに言ってましたけれども。
 そこではしかしですね、問題は刷り込みの事に関連して言いますと、そういう国旗当番のある
所で育った子どもさん達がですね、その事に対して全然異議申し立てをしない。全く今までそう
いう事がなかったんだそうですね。「おかしい」とか、先ほど冒頭の話にもどなたかおっしゃって
ますが、「おかしい」と思っても声を出す、あるいは何らかの行動をするという所まで、あるエネ
ルギーが当然いる訳ですよね。子どもさん達の中で「やっぱりおかしい」と思っている人がいる
かも知れない。でもそれは行動に表さないと分からないですから、やはりそういう形で子どもに
ですね日の丸や君が代というものが、そういう形で法制化以前から刷り込まれいるという、これ
は全国全てではないけれども、そういう所がある。
 
§成人式での「君が代」
 そうした子どもさん達がですね、そのまま大きくなっていくとどういう事になるかと言うと、これ
も1つの象徴的な出来事である訳ですけれども、この間のいわゆる1月8日の成人式でですね
若い人たちのマナーと言いますか、それが問題になっていろんな形で叩かれもしたんですけれ
ども、あんまり評判にならなかったのは成人式にですね、それまでなかった日の丸・君が代バ
ァーッと入ってきてですね、これも横浜と藤沢の話なんですけれども、横浜の成人式の場合は
ですねプロの女性歌手を呼んでですね、そして彼女に君が代を独唱をさせるという、ですから
参加者に斉唱、みんな揃って歌わせるという事じゃなくて聞かせるという、斉唱じゃなくて静聴。
静かに聴かせるというふうな事をやったんです。もちろん日の丸は壇上の端っこの方にいわゆ
る三脚ですね、三脚立てをさせている。その時、成人式を主催した教育委員会の人はですね、
その出席者にですね「ご起立願います」とやって、そして「プロの女性歌手が登場して君が代を
歌ってもらいます」と、それでご起立のまま聞かせている訳ですね。かなり前の方の人は拍手
も終わった後ですね、その女性歌手に拍手をしたと。そして異論は全く出なかったそうです。教
育委員会の説明としては「歌わせるという事をしなかったから、これは強制には当たらない」と
いうふうな説明をしてました。「歌わせる事をしなかったら強制にならない」というふうに考えてい
る訳ですね。しかし、その場で例えば「成人式には出ていたい。だけども君が代を聞くのは嫌
だ」と思っている人がいても、出なければ、そこを退室しなければ退場しなければ、いわゆる卒
業式とよく似てますけれども、その成人式にいられないという事になって、つまり退席を強いる
という事になる訳ですね。静聴、静かに聴かせるという事自体も既に強制のあれがありますけ
れども。ですから強制と言うのは、そしてそこの場でですね「着席をする」という手立てが仮にあ
ったとしても、その場の雰囲気でさっきの幼稚園の運動会じゃないけれども、「座る」という自分
の異議申し立てを表す行為という事がなかなかしにくい。そういう場の雰囲気というのも強制力
として働く訳ですね。だから物理力としての強制だけではなくて強制には様々な繰り返しになり
ますけれども、様々なものがそこに組み込まれているという事だと思います。
 ただ私が今ここで言いたいのは、小学校、もう幼稚園からですね小さい頃からそういう刷り込
みが行われてくると、大人になってもそういう事に対しての「何か変だな」というふうな事がなか
なか言葉としても出ない。そして行動としても表れないという事になってしまう。むしろ刷り込ま
れて当たり前。「刷り込み」という言葉自体が既に、ある種社会学的な言葉ですから分からない
訳ですけれども。

§カラオケ―「君が代」静聴。カラオケに入っ た「君が代」
 それからもう1つ、非常に面白いと言えば面白いかも知れませんけれども、通信カラオケと言
うのがありますけれども、カラオケのお好きな方がいらっしゃるかと思いますけれども、その通
信カラオケに「ジョイサウンド」という会社があるんですね。名古屋に本社がある会社ですが、
そこがもう今から2年前、一昨年ですね。1999年ですね。つまり法制化、日の丸・君が代が国
旗・国歌として法定された直後にですね、その通信カラオケの「ジョイサウンド」という会社がで
すね、機種が5つぐらいあるんですね。一番最高級の機種に「ハイパージョイ」と言うのがある
んです。何か通信カラオケに詳しいようですけれども、これはみんな聞いた話で、そこにですね
君が代とラジオ体操の第2っていう、誰か歌える人はいます。ラジオ体操の第2と言うのを一緒
に入れたんですね。載せた。
 どうしてそういう事をしたかと言いますとですね、通信カラオケの業界と言うのは大変競争が
激しくてですね、何か新しいもの目立ったもの変わったものをですね曲として入れたら、たくさん
お客さんに歌ってもらう。企画会議でですね、毎週企画会議があるんですけれども、企画会議
でちょうど99年の8月ぐらいまでも大変に日の丸・君が代と言うのは問題になったという事で、
彼らは会社ではですね企画会議で「君が代を載せたらどうだ」という話が出た訳ですね。その
時に企画会議では「いや、そんなもの載せたら右翼の方から『不敬だ』と言ってね批判をされる
かも知れない。街宣車が来るかも知れない。それで逆に、今あんまり「左」という言い方はない
そうですけれども、「そうじゃない日の丸・君が代を反対している人からも抗議があるかも知れ
ない」という事でケンケンガクガクになったんだそうですけれども。しかし「それはなかなか面白
い企画だ。たいして目立たないようにラジオ体操第2と一緒に載せよう」と。それで且つですね
「最高機種ならば、あんまり出回ってないから目立たないんじゃないか」と、つまり「少し様子を
見るためにそうしよう」という事になったんですね。それで9月下旬ぐらいに載せたんだそうで
す。そうしたら、たまたまその年に何かサッカーの国際大会があってですね、日の丸・君が代
が大変盛り上がったと言う。サッカーが盛り上がった。同時に「スポーツと国歌」とか、「スポー
ツとナショナリズム」とよく言われますけれども、スポーツとその日の丸・君が代の問題と言うの
は何か色々言われてますけれども、それで一気にですねそのハイパージョイを通じてリクエスト
が出たんですね。抗議と言うのは全くなかった。それでその会社はですね「これでよし行ける」
という事で去年の秋、つまり1年ほど様子を見て全機種に5種全部に載せたんだそうです。去
年はオリンピックがあったから、なおそれで受けたと言う。どれぐらいの需要があったのかとい
う事は明かしませんでしたけれども。
 こういう事でですね刷り込みと言うのが様々な形で成されていっているという事ですね。これ
は本当に積み重なると、拒否するという事が大変難しい状況がどんどんどんどん生まれてくる
と思います。この刷り込みはそういうような学校教育とか、幼稚園とか、つまりいわば広い意味
での公教育、縦の公教育を通してだけではなくてですね、地域にもそれが入り込んできている
と言う。

§家庭に配られるリーフレット―北海道や日高。 自治会通じてリーフレット配布。
 広島選出の亀井静のお兄さん、亀井郁夫って言いましたっけ。ですよね。亀井郁夫さんがサ
ンケイの出している「正論」という雑誌のインタビューの中でですね、もう2年ぐらい前のインタビ
ューの中で「学校の中で日の丸・君が代をやる事は大事だけれども、もっと大事なのは家庭で
やる事だ」と。つまり家庭で旗を立てて祝日にですよ。家で君が代をその日に歌うという光景は
ちょっと想像だに出来ませんけれども、全員が揃って祝日に君が代を歌ってですね。そういう
光景はさすがに戦前でもなかった思いますけれども、よほどあれがない限りは。亀井郁夫氏が
ですね、そういうふうに言っている。
 それが2年前ですよね。実は私この間北海道へ行くちょっと前だったと思いますけれども、根
室という北海道の根室でですね教育委員会の、あそこは大きいですから幾つか市町村で連合
教育委員会と言うのを作っているんですよ。その連合教育委員会と言うのは、リーフレットを作
って各家庭にですね「日の丸を揚げよう」という配った訳ですね。自治会とか、町内会を通じて
やった訳ですよ。3万近い世帯数。それが「21世紀の国際社会に生きる根室の子供達のため
に」というものです。それが「根室管内支庁教育委員会連合会」という名称で出ている。その中
にですね「21世紀の国際社会を生きるために日の丸・君が代が必要なんだ」と、そういう論旨
ですよね。それで漫画入りでですね、日本のこの3番目に「日本や諸外国の文化や伝統、国
旗・国歌を大切にする地域づくりに努めましょう」。そして「地域と学校と家庭」と言うのがあるん
ですね。ちなみに家庭の所だけを読み上げましたら日の丸が揚がっているんですけれども、
「国民の祝日等には国旗の掲揚に努め、日本や諸外国の文化や伝統を尊重し、世界に貢献
できる生き方の大切さを理解するようお願いします」。それで「僕のお父さんも家に国旗を揚げ
ているよ」という絵が書かれていますね。
 これは実は東京でも報道されて「ああ、ここまで来たか」というふうに私思ったんですけれど
も、北海道では非常に北海道新聞が大変大きく報道しましたけれども。これを北海道の教職
員組合を北教組と言いますけれども、北教組を通じて送ってもらったんですけれども、その直
後に私日高の方へ行く、日高の組合の方で呼ばれて話をしに行くという事になったので、日高
の方の人に「根室の方ではこういうふうになっているんですね」と聞いたら、「実はあれはです
ね私の所の方が早かったんです」と言う訳ですよ。「えっ」と思ってですね、そうしたら実際そう
なんです。これと同じものがですね、これが配られたのは2000年の12月から今年の初めにか
けてだったそうなんですけれども、その1年前に日高の所で配られたんですね。あそこは何町
だったかな。8つか9つの町だけです。町だけなんですけれども、根室ほど大きくないけれど
も、それでも万単位の家庭数ある訳です。それを私の所に送ってもらったんですね。送ってもら
って見たらですね全く一緒なんですね。根室のものと。書かれているマンガの「地域・家庭・学
校で日の丸を揚げましょう」という事を訴えている訳ですけれども、このマンガの順番を変えて
いるだけなんです。順番を変えて、それが1年後に根室で配られている。こういう状況が起きて
います。
 北海道は実は広島と並んで教職員組合が非常に強い。今は「ここは強かった」と言った方が
良いかも知れませんけれども、そんな事を言ったら怒られるかも知れません。とにかく非常に
強い所で「北教組をつぶせ」と言うのは、今はもうサンケイ、それから文部省、今の文部科学大
臣町村信孝のは北海道出身ですね。これは藤岡信勝なんかと組んで主として十勝を拠点にし
ている。藤岡さんと言うのは北海道学芸大の釧路分校にいた先生なんですけれども、昔「仏の
藤岡」と言われたそうです。何故かと言うと授業に出席しなくても必ず単位をくれるという、凄い
優しい良い先生だった」と言うのが北海道の評価なんですね。それが東大へ行ってからコロッ
と変わってみんなびっくりしたという。これは北教組の組合員の話なんですね。「私はそんなの
とても信じられない」というふうに言ってましたけれども、とにかく藤岡氏とか、中川というのがい
ますね。中川昭一という、自殺した中川氏の息子ですけれども、そういうのと組んで、今物凄い
攻撃が入ってますね。凄まじい。
 広島でやったのと一番よく似てるのが、つい最近立ち上がりました「教育改革北海道○○」と
いうやつですね。広島にも出来ましたよね。あれと同じやつです。北海道の財界の人達を頭に
持ってきてですね、それで道教委やなんかにプレッシャーをかけるという。サンケイなんかに大
きく書かれてましたけれども、そういう事が北海道では強くなってくると思いますけれども。

§「刷り込み」の剥がれ―「出会い」によって  反対意見。少数意見の存在を知る。
 そういう事でですね「刷り込み」と言うのが様々な所に入り込んでいくと。但し、この刷り込み
がですねそのまま全員に渡っていくかと言うと、必ずしも実はそうではない。どこかでですね気
付く。刷り込まれた人達がどこかで気付くという機会がある。全員とは限らないけれども。それ
は何かの事件に出会うとか、ある人に出会うとか、そういう事が多い訳です。ある出会いによっ
て自分が例えば歌ってきたですね敬ってきた旗なり何なり「何かおかしいじゃないか」という事
をある日突然ですね、ある日突然何かのきっかけで気付くという事があるんですね。そうすると
自分が行われてきた事が何だったんだろう。例えばそれはこういう問題とよく似ている訳です
ね。どこかで出会って誰かが何か言った時に「えっ、そうなの」という所で付く。その気付きと言
うのがとっても大事な訳ですね。

§子どもの権利条約―意見表明権
 先ほど山形の小国という所の話しましたけれども、実は今日そこの話をしようと思ったんです
けれども、来る直前にですね、もうちょっと鮮やかな話と言っても良いでしょう。本当に来る直前
の朝、私今インターネットをやっておりまして、そのインターネット情報で出てきた話なんですけ
れども、千葉県という所は愛知県と並んで管理教育には物凄く徹底している所です。非常に有
名な所なんです。実は千葉県でですね、千葉県の高校で殆ど日の丸・君が代が完璧に入って
いる所ですね。その高校で実は9つの高校で日の丸・君が代がずっと入っていないんですね。
そこへ攻撃がガアーッとかかってきて去年の段階で、その高校長に対して教育委員会が職務
命令を出した訳ですね。去年出している訳です。札幌も去年、札幌市教育委員会も職務命令
を全校長に出しましたけれども、9月に。その直後にそれに習って千葉でもそれをやった訳で
すね。9つの高校で。
 ところがですね、その千葉県下の9校の学校長のみ出された職務命令の撤回を求めるとい
う、その結果教職員組合ではなくて生徒さん達がやったんですね。2月の14日、これは新聞に
出たんですね。2月の14日ですけれども、その9つのうちの3つの学校の生徒会が一緒になっ
て千葉県教育委員会の委員長宛に請願を出したんです。この請願が出たという事は報道され
たので知っていたんですけれども、その内容が分からなかったんですね。「非常に長文の内容
だ」という事だけは伝わっていたんですけれども、14日ですから遂この間ですよね。今朝方そ
の長文の内容が分かった。つまり教育委員会に出した内容が分かったんですね。これを実は
車中、こちらへ来る中で読んでましてですね大変びっくりをしたと言いますか、つまりここの学
校の生徒さん達と言うのは、小学校・中学校が全部日の丸・君が代が入ってやられてきた子と
もさん達です。それで高校になってですね、ここの高校では最初から入学式から卒業式から全
部自分達の手で作るという、つまり学校の行事や何かは子ともが参加して作り上げていくとい
う事が生徒会の条文としてある訳ですね。条文として。ですから当然運営に参加していく訳です
から、子ともたちが意見を言える訳ですね。そういうシステムがその学校には出来上がってい
る。しかもそれは慣例として出来上がっている訳ではない。有名になりました埼玉県の所沢高
校と言うのがあります。埼玉県の所沢高校の場合は、ここの場合は慣例としてそうなってい
た。積み上げてきて。それはそれで積み上げていれば少し難しい話をしますと、慣例として積
み上げたものは慣習法という事で法的にはそれなりに意味がある訳ですけれども、ここの異議
申し立ての請願書を出したそれぞれの高校と言うのは、全部それが生徒会の規定としてある
訳ですね。だから、それを校長も全部認めてやってきた。去年までずっと。ところが「やらない」
という事で教育委員会から、もちろん上はもっと文部省があるんですね。それで締め付けが来
て職務命令が出た。「その職務命令を撤回しろ」という内容がですね、請願の趣旨と言うのが6
項目上げて、その6項目に詳しい説明が書いてあります。これは全部生徒達が作った。もう日
本の国会議員でもこんなの書けないじゃないかと思われるぐらい見事な文章なんですね。趣旨
がですね、これは全部読み上げても時間がありませんので、趣旨はですね「子どもの権利条
約」と言うのがあります。日本も批准しています。94年。これを前面に立てているんですね。子
どもの権利条約、とりわけ12条、14条と言うのは重要なんですけれども、それは意見・表明
権。そして学校の運営に子どもたちが参加を出来るという権利。それを子どもの権利として認
めている。つまり英語で言いますと、The best interlest of childと言いますけれども、児童にと
っての最善の利益という事ですね。「The best interlest」ですから最善の利益ですね。子どもの
=of child。ですから最善の利益を実現し、保障していくには幾つかのあれがある。そのうちこ
の12条、つまり意見・表明権とかですね、あるいは参加権ですね。もちろん思想・良進・宗教
の自由と言うのは大事だ言っている訳ですけれども、それを前面に押し立てて、つまり「これは
国際法だ」と、そして「憲法もある」と、「職務命令というものは、それを超えるものなのか」という
事。これは問い質している訳ですね、教育委員会に。「どういう根拠でそういう職務命令を出し
て、自分達が作り上げてきた学校の自主運営というものを超えることが出来るのかという事を
キチッと答えろ」。
 学習指導要領について、こういうふうに言っているんですね。「職務命令は学習指導要領を
その拠り所にしている。学習指導要領が法であるかないかは議論の分かれる所ですが、仮に
法であったとしても憲法や法律の下にランクされているものである事は疑いようがありません。
それで日本国の最高法規日本国憲法は第19条で内心の自由を公共の福祉を理由にしても
侵すことの出来ない権利として手厚く保護しております。生徒と職員の過半数が賛成した要望
書と言うのは、日の丸・君が代をやらない卒業式と言うのをキチッとやって下さいという事を職
員会議に出した訳です。それを職員会議が認めた訳です。校長も認めた。その要望書なんで
す。全く無視した内容が職務命令によって強行される事は憲法の理念に反しています。確かに
生徒ならびに保護者は職務命令が強制されませんが、生徒のため、特に卒業生のためにあ
る卒業式に国旗・国歌が強制されるという事は私達も束縛されるという事です。職務命令が出
されるに当たって県の教育行政関係者は反対ならば国歌を歌わなかったり、起立しなかった
り、退席しても構わないという趣旨の発言をしているそうですが、生徒の半数以上の退席など
の意思表示をしなければいけない卒業式は何のためになると言うのでしょうか。このような発
言はまるで各学校で行われる卒業式がその学校の当事者のためではなく、教育行政・学習指
導要領のためにあるかのように考えているのではないかという疑念を生じさせ実に不快で
す」。こういうふうに言っているんですね。そして「上意下達」という事は、つまり命令によってそ
ういう事を実現するという事は教育の精神に反するじゃないか、という事も言っている。千葉県
教育委員会はこれを受けてですね23日に教育委員会を開くんですね。「その会議に自分達が
意見陳述させろ」というふうにも言っているんですね。大変注目したいと思います。大変長文な
ので簡単にしか申し上げられませんでしたけれども、ご希望であればこれコピーされて良いと
思います。
 これは組合ではなくてですね子ともたちが出しているという事。これは私は非常に何と言う
か、「捨てたものじゃない」と言いますかね、「希望というものがあるんだ」という事を改めて感じ
ました。ある意味ではこの刷り込みが剥がれていくということを、この子ともたちは決して多数
ではないかも知れない。しかし少数ではあるけれども、この少数のどこかに伝わる訳です。必
ず伝わってます。それを聞いた人がまたどこかに伝える。これですよね。これが一番私は大事
な事だろうと思うんですけれども。

U.8100万の意識
 
 しかしですね、今からお話するのは決して明るいと言うか、希望だけではなくてですね、必ず
しも良くない状況の方が多いんですけれども、今用意されている学校教育法と言うのがありま
すけれども、教育法の解約、法案が政府のあれで言うと改正案ですけれども、その原案にです
ね子ともの出席停止時の条件と言うのを4つほど取り上げました。その4つの条件の一番最後
と言いますか、1つにですね「授業・教育活動の実施を妨げる子供は停止させる」と、学校に来
なくてもよろしいと。これは不適格教員排除とほぼ一体化されたものだと思いますけれども、日
の丸・君が代に賛同できない子ともを排除していくという事をも査定に入れている可能性と言う
か、危険性はあると思います。これは。だからこそ、こういう子ともたちの問いと言うのは凄く大
事だと思いますね。
 これを一くくりにしてしまうと、言ってみれば非常に日本の社会と言うのは、これはもちろん今
に始まった事ではないのですけれども、非常に今際立っているんですが、排他主義、あるいは
別の言葉で言うと自民族中心主義と言って良いでしょうけれども、裏返せば排他主義ですけれ
ども。そういう社会が実は最も意識して排除していかなければならないのが、この排他主義で
ある訳です。あったしある。だけれども、それをまた全体の社会の中でそういう排他主義のよう
なものをですね、声高に取り組んでいこうという動きがある。
 この排他主義は実は非常に日常的に生産されている。私たちですの生活の中に染み込んで
いる訳ですね。それがまさにこの問題だろうと思います。今報告があった。私は今日の靖念会
の方の報告を聞いていて「私がわざわざ申し上げる事もないなあ」と思ったほど。それぞれ1つ
ずつ1時間や1時間半かけてお聞きした方が良いのかも知れませんけれども。ですから私がこ
れから話するのは非常に屋上屋を重ねるような事になるとは思いますけれども、少しご了承願
ってですね少しだけお話したいと思いますけれども、見出しと言いますか、2本目の柱として8
千100万人、これひょっとしたら8千300万人だったかも知れませんけれども、今年のですね
お正月に初詣をした人のほぼだいたい概ねこのぐらいだろうという、これは何故か警察が調べ
る訳ですけれども、この中には神社だけではなくて、いわゆる仏閣というお寺さんもある訳です
けれども、しかし多くは神社ですね。それは神社神道を信じて行く人がいったいどれだけいる
か分かりませんね。多くはそこへ行った人がそこの神社に何を神として祭っているのかさえ知
らない人達と言うのは物凄く多い訳。例えば明治神宮。これは300万人を超える人達が参拝
に行く訳ですね。しかし、あそこには明治天皇が祭ってあるという事ですよ。結構若い人が多い
ですから、場所柄原宿に近いとかですね、そういう事もあってですね若い人が多い訳ですけれ
ども、そこに明治天皇が祭ってあるなんて、しかもそれが遥か何百年も前、あるいは伊勢神宮
に近いぐらい古いんじゃないと思って錯覚している人がいる。「それは明治天皇が死んでから
の話だよ」と言ったら、「えっ」というような事を。そういう神社に行くのがそれこそ伝統かのごと
く。
 だけども初詣と言うのはですね、これは私が調べた訳ではないですけれども、京都大学にお
られる高木さんという若手の先生がおられるんですけれども、その方の専門研究ですけれど
も。初詣が日本人の中に定着と言うか、はじまるようになったのは実は明治以降なんですね。
つまり江戸時代まではですね、三が日と言うのは寝ているのが普通なんです。外に出るなんて
いう事はしてはいけないというふうに。とりわけ神社へですね参拝するなどと言うのは、定着し
たのは妄明治の中期以降だと。とりわけ京都なんかには神社が多い訳ですけれども、その先
生は京都を中心に調べられた事なんですけれども、多少の違いはあるかも知れませんけれど
も、ですから初詣などと言うのは決して伝統でも何ともなくてですね、ついつい最近、私達のお
爺さん、祖父、私の祖父ぐらい。そこへ8割近くの人達が出かける。別に信仰を持ってなくても
ですね。それは社会のしきたりとか、先ほど出た社会習俗とかですね様々なものが入ってい
る。伝統とか文化とか。
 
§神社の祭りに反対するような奴は日本人じゃ ない
 その中でこういう問題がある訳ですけれども、ここで見出しとして取り上げた「神社の祭りに
反発するような奴は日本人じゃない」。先ほど幾つかの言葉が出てましたけれども、これ最初
に問題にした公的に問題にした、あるいは「された」と言うのはこの事件だっただろうと思うんで
すけれども、浜松市に住んでおられる溝口さんという方がいらっしゃるんですけれども。70幾
つのご年配の方ですけれども、その人はクリスチャンです。プロテスタント系ですけれども無教
会派という内村鑑三の流れを組む人ですけれども、この人がですね1955年に住んできた訳
ですね、55年に。ですからもう今から46年かぐらい前の話ですね。自治会役員の人がです
ね、この自治会は凄い大きいです。3千世帯と言いますからね物凄い大きいと思いますけれど
も、浜松市と言うのは自治会組織が物凄く発達している所で、選挙になるとその自治会がフル
活動するんですね。物凄い。だから自治会の支援がないと市長は絶対当選できないという、そ
ういう所だそうです。そこへ秋祭りの神社の寄付金を集めに役員の人が来て、それを断る訳で
すね。彼が溝口さんという人が。「自分はクリスチャンだから」と言って。その時は「ああ、そうで
すか」と言って帰った。ところがですね、その後に神社と自治会の関係と言うのは「ああ、そうい
う事なのか」という事を彼が気付いていくと同時にですね、どんどんどんどん自治会と神社の関
係が密になっていって、例えば自治会の会則に「氏子総代若干」。自治会の会則にですよ。会
則に「氏子総代若干名を置く」とか、あるいは「氏子総代は必要に応じ自治会役員会などに参
画する」。つまり一応氏子の会と言うのと自治会と言うのは分かれているようですけれども、殆
ど一体化するというような事になって来ます。そういう項目が設けられて「これはやっぱりおかし
いじゃないか」というふうに彼が思い始めてですね、異議申し立てを始める訳ですね。この状態
はまさに彼の言葉ですけれども、溝口さんの言葉ですけれども、「自治会神道だ」と。自治会神
道と言っている。これは今でも生きていると思いますけれども、「そういう自治会の会則と言うの
はやっぱり問題があるから避けるべきだ。削除せよ」という要求をするんですね。もちろんたっ
た一人の異議申し立てです。しかし彼の言葉によると、この3千世帯もある地域ではですね自
分だけがクリスチャンじゃなくて、つまり神道のある神社を崇敬している信徒と言うのがどれぐ
らいいるかは別にしても、他の宗教を信じている人だっている。にもかかわらず、この異議申し
立ては彼だけからしか出ない。みんな先ほどの話もありましたけれども、声を出さないとか、や
り過ごすとか、いう事だったようです。言わば知らんっぷりをした訳ですね。問題にしたのは
1955年からですけれども、そのままずーっと毎年のように彼は問題にする。そのうち役員にな
る。「役員になったらなおの事、発言権があるから」と言って問題にするんだけれども、なかな
か多勢に無勢でですね直ぐ通らないと。
 そうこうしているうちに1971年にこれはお聞きになった事があると思いますけれども、「津の
地鎮祭訴訟」と言うのがあったんですね。三重県の津市が体育館を建てると。その時に公金を
使って神職の人を呼んで祝詞、神式の地鎮祭。「これは憲法違反だ」という事で津の市民が訴
えて、1審は負けるけれども、名古屋高裁で逆転勝訴する訳ですね。これは大変良い判決だっ
たんですけれども、この津地鎮祭訴訟の名古屋高裁判決を彼が知ったのは71年。71年に判
決が出ますから。それで彼は「自分がやっていることは宗教の自由とか、政治と宗教と言うの
はきちんと分けなければいけない。国家と宗教は分けなければいけない」。こちらの自治会は
ちょっとよく分かりませんけれども、公金が入っている訳。つまり浜松市でも浜松市が補助金を
出している訳ですね。相当な金額の。ですから公金の流れている所の、そして行政の下請け機
関のような形になっている自治会が、そういう特定の宗教である神社と関係を持つという事が
おかしいというふうな、つまり厳密に言えば「憲法92条に反する。政教分離に反する」と、それ
から彼個人の宗教の自由を侵されるという事で71年にですね、自治会長に分離を要求するん
ですね。「きっちり分けるべきだ」という事。そうしたら、その事が新聞報道されてしまう。新聞報
道されたら彼がですね、役員会の総会がある日の夜に呼ばれてですね、3千世帯ですから非
常に役員も多い。70人ぐらいいるんだそうです。凄いと思いますけれども、そこで言わば袋た
たきに合う訳ですね彼が、言葉の上ですけれども、もちろん。その時に「神社の祭りに反対す
るような奴は日本人じゃない」という事で罵倒されて、そして「そんなの止めろ」と、「そんなに嫌
だったら止めろ」という事で、結局自治会を退会をさせられる訳ですね。その退会をさせられた
事によって、市からですね様々な広報とか来なくなる。予防注射とか何とか全然来なくなるんで
す。つまり市民でない。市民権まで奪われるという事になって、非常に大変な状況に追い込ま
れる。これは後では時間がないので詳しく申し上げられないと思いますけれども、佐賀の鳥栖
の訴訟でも原告になった人はそういう目に合う訳ですね。一時的に。その時に市長に文句に行
ったらこういうふうに言った。「神社は宗教ではない。日本人なら誰でも持つ心の故郷。自治会
を止めるような人は自由を履き違えている」と。どっちが自由を履き違えているのか分かりませ
んけれども、結局まだ細かい事があるんですけれども、1974年の6月に彼はですね、溝口さ
んは「公金が使われている」という事で監査請求をするんですね。監査請求をやって、それが
棄却をされるので訴訟を起こすんです。ですから正確にはこれが公的に自治会と神社の問題
で裁判になったのは、これが一番最初なんですね。1974年の7月かなんかですけれども、と
ころが市長側がですね、これ被告は市長にしております。「公金が出ておる」という事で、市長
側は選挙を間近に控えてましてですね「これはまずい」という事で全面降伏してしまう。つまり溝
口さんという人と覚え書きを交わして、市内の全部の自治会、幾つある。300幾つある。400
近い自治会があるんですけれども、ここでは全部やっている。だから「それを分離しろ」という
覚え書きを交わすんです。「市内の全部の自治会はそうしなさい」。それで一応そういう事で訴
訟を取り下げるんですね。決着をしたんですよ。これは弁護士もちゃんと立ててやったんです
ね。だから1回も審議は開かれずに終わる訳です。それで覚え書きが残るんですけれども、し
かし私がつい最近数年前、
97、8年だったと思いますけれども、その覚え書きが守られていると言うのは自分の住んでい
る、彼の住んでいる所を含めて5つ6つだと。後はみんなまた元に戻っていると。だから彼の言
葉を使えば、「国家神道を支える力の強さというものを改めて今も味わっています」というふうに
言っていました。


§市民はみんな氏子なんだ
 それからこれは、ごく最近の話です。今日の資料の「週刊金曜日」のですね鳥栖の問題が出
てます。それをお読みいただければ良いと思います。その下の方にですね長野県の上田とい
う所がありますけれども、上田市で同じような問題が起きていおる。この上田市の問題にした
のは、この人は85歳の人です。物凄い元気な人ですね。だいたい今の年配の人の方が元気
があるようですけれども、上田市では小林さんという人なんですけれども、この人はカトリック信
者で去年の1月の総会に初めて問題にした。前から「問題にしたい」と思っていたんだそうです
けれども、連れ合いがさっきも出ましたけれども、地域からいわゆる鍵かっこつきですけれど
も、「村8分のような状態になるのは嫌だと。それが怖いから付き合っていくのがあれだから我
慢して」というふうに、ずいぶん言われてきたんだそうです。「我慢に我慢を重ねてきたけれど
も、もう耐えられない」という事で去年の1月の総会で言ったんだそうです。そうしたら、その席
上で「上田市民と言うのはみんな神社の氏子なんだ」というふうな反発があった。上田市と言う
のはですね、そこの中心部。非常に土壌としては革新的な所なんですね。それで自治会なん
か割りと知識人なんか、例えば信州大学の学部長をやった人だとかですね、そういう人達が役
員を占めている。にもかかわらず、こういう台詞がスーッと通ってしまう。結局この人が聞いて
いたのは「上田市民はみんな神社の氏子なんだ」というふうに言われて、「あっ、これは要する
に神社神道と言うのは宗教でないと思っている人たちが圧倒的に多いんだなあ」というふうに
彼は感じる訳ですね。
 だからと言って彼はですね、そこで鉾を治めるのではなくて、ある人にサデッシションを与えら
れて、アドバイスを受けてですね、そこの自治会も市からたいていそうですけれども、市からお
金が出ているんですね。運営全部じゃないけれども、補助金とか、助成金とか、交付金とか、
いろんな形で出ている。ここの自治会では3つの神社にですね、祭礼費と言われてお金が出て
いる。お金にすると僅かです。何百円。3つの神社ですけれども、僅か。あれの鳥栖の場合が
月額にすると43円か何かなんですね。たいして事はない訳ですけれども、それでも「事は金額
の問題ではない」という事で、彼はですね今度は市とやり合う訳ですね。一人で上田市と。公開
質問状を2月。去年の2月から5月ぐらいまで8回ぐらい出す訳です。そして市の方はですね最
初は「何かうるさい奴がいる」と、あんまりまともに取り合わなかったんだけれども、あんまり憲
法20条とか、89条というものを
出してですね言ってくるので、顧問弁護士に市が相談したんです。そうしたら「これはどうもまず
い。もし訴訟を起こされたら市は負けますよ」というふうに、その弁護士さんに言われてです
ね、あわてて連合自治会長を全部集めて、その弁護士さんに話をしてもらって、今までやって
いる所は奉賛会、「神社の奉賛会というものがあれば、それとキチッと分けなさい。別会計にし
なさい」とか、いうふうな指導をしてですね。それが地元の新聞「信濃毎日」に大きく取り上げら
れてですね、それで問題になってですね結局、彼は裁判までは考えていなかったようですけれ
ども、とりあえずそこの自治会も「これからは予算には載せない」という事になっています。だけ
ども小林さんが言うには「神社が宗教でないという国家神道的な意識・感情が間単に払拭され
るとは思えないので、これからも監視を続ける」というふうにして、とっても熱心で何か1ヶ月1
回ぐらい電話してくるんですけれども、「今はこうです。こうです」と言って報告してくれるんです
けれども、そういう事があると。だから、ここは裁判にはなっていないけれども、異議申し立てを
する人達が出てきている。

§「神様に反対なら、神様のいないところへ出ていけ」
 今、最も注目されているのは、おそらくこの佐賀県鳥栖市の「神様に反対なら、神様のいない
所へ出て行け」というふうに言われたという事で問題になっている鳥栖市の違憲訴訟なんです
ね。そういう意味では初めて本格的な訴訟だと思います。現在のところ裁判の詳しい模様は申
し上げられませんけれども、7回ぐらい行われていると思います。そのうち私が行ったのは4回
ですけれども、問題にしたのは92年から問題にして、そして「神社費」と言うのが出ているので
自治会から。この方は真宗の本願寺派のお西さんの方です。最初はもちろん自治会の会長ら
なんかと交渉をする訳ですけれども、なかなか受け入れられない。今度は法務局の人権擁護
課、それもうまくいかない。そして今度は佐賀県弁護士会に人権救済の申し立てをする。そう
いう状況が続いたんですけれども、弁護士会は勧告をするんですね。「止めなさい」と。「止め
なさい」と言うのは「自治会費からそういう形にするのは憲法に違反するから止めなさい」と言っ
たんだけれども、その勧告を無視して彼の要求を聞かないという事で、結局止む無く訴訟に至
ったと言うのが実際です。
 ここで幾つか驚く事はあるんですけれども、その前にですね、もしあれだったら是非行って頂
きたいと思いますけれども、毎回ですね物凄いです傍聴が。どの傍聴が多いかと言うと、佐賀
ではこういう憲法訴訟なんて殆ど初めてぐらい起こった訳ですけれども、大法廷を使う。大法廷
と言っても最高裁ほどではないけれども、60人ぐらい入れるかな。神社庁関係、神社神道の
人達がね動員をかけてくるんですね。その原告を支援する人たち。真宗の方達とか、クリスチ
ャンとか色々いますけれども、福岡からも来る人達がいるんですが、それの3倍ぐらいですね。
毎回抽選になるんですけれども、ですから殆ど傍聴席は神社神道関係の人ですね。町内会も
そうですけれども、そういう状況です。ですからなるべくたくさん支援をするという事は、それは
それで大事だと思います。
 被告の主張はどういう事を言ってるかという事だけ、ちょっと申し上げたいんですけれども、
「特定宗教を名乗る者でも氏神として住民に受け入れられている時は、特定の宗教・宗派を代
表するものではなく、地区住民の一人一人を分け隔てなく守る産土の神として尊崇を受ける。
その時の住民の心情は決して宗教心のみ目指すものではなく、宗教・宗派を超えた」。ここで
すね。「宗教・宗派を超えたこの地域に居住する者の素朴で純真な住民感情なのであるから信
教の自由の問題ではない」。
 それから問題になったのは天満神社と言うんですけれども、「天満神社と言うのはですね神
社というよりも地域の人の公園になっているんだ。園芸とか、スポーツとか、盆踊りとか、子供
の遊び場など共通の使用目的に供される。宗教的に結びつけて考えるとすれば、例祭とかで
すね、八朔という」、これは無病息災を祈願するお祭りですよね。完全な宗教行事ですけれど
も、「これをを願う農耕社会に根付く伝統的風俗・習慣であり、宗教色はきわめて薄い」。こうい
うような事。言ってみれば伝統論に移調した主張ですね。伝統論。祭りなんかを持ち出しなが
らマツロウはない人たちを許さない。みんなで一緒に、さっきも出てましたけれども、みんなで
一緒に全員でやる、これが地域社会のあり方だ。ですから異論者を認めない。しかし強く言え
ばですね、この神社神道と言うのは極めて全体主義的な宗教ではないかと私は思っているん
ですけれども、みんなで全員でやると言うのは神社神道の特徴ですよね。ただ支援者の僧侶
の一人がおっしゃっていたんですけれども、「真宗の門徒はみんなこういう問題については、前
から知っていたし気になっていた。しかし、この問題に取り組むと泥沼に落ち込む危ういものが
あるので、問題にしなければいけないと思いつつしてこなかった」という反省を込めておっしゃっ
てました。それは私の原稿の中にも書きましたけれども。
 
§「村民の心のふるさとがなぜ」
 それからですね、少しズレルかも知れませんけれども、高知県の十和村という所で、98年に
出た判決があるんですね。十和村違憲訴訟と言うんです。これは小さい村ですけれども、その
村では村が2つのですね神社の氏子集団にですねお金を出したんですね。300万ずつ、計6
00万ですね。何のために出したのかと言うと神社の修復費。とりわけさっき出ました神楽を舞
う舞台、それを修復する。あるいは新築する。そのためにお金を出した訳ですね。これは「政
教分離に反する」という事で訴訟が起きたんですね。訴訟が起きた事自体伝えられなかったん
ですが、判決だけが出てですね注目されたんですけれども、それに対して高知地裁がですね
「これは違憲である。完全に違憲である」という事。それで「出したお金全部返せ」という事で十
和村の村長に全部お金を返させたという、これは1審判決で確定しました。この時ですね、やっ
ぱり言われたのは「神社の祭りは神社の氏子のみならず、他宗教の信者も参加する地元部落
のイベントであるんだ」とか、「神社の社殿は宗教的なものと一線を画した地域ふれあいの場
所である」というような形でですね。あるいは神楽というものがですね無形文化財に指定された
んですね。神楽の名前はハタ神楽と言うのと、もう1つ何と言ったかな、ハッシャ神楽と言った
かな。何かそういう神楽の名前。それで村の無形文化財に指定したんですね。しかしこれは不
思議な事に「お金を出した後で問題になるといけない」という事で慌てて指定をしたという、とん
でもない酷いやり方ですよね。つまり「文化財に出していれば、その文化財で政教分離に反し
ないじゃないか」という逃れ道ですよね。そういうためにやったので見破られてですね、さすが
に裁判所も見え見えだったので見破られてですね、「駄目だ」という事になってお金を返させた
んですけれども、被告弁護士の判決の反論が面白いと言うか、やっぱりこの状況に言っている
んですけれどもね、「村民が心のふるさとと親しむ神社が、なぜ宗教上の対象となるのか。神
社での祭りには他の宗教の人達も参加しているのに」というふうな不満ですね。確定はしたけ
れども。それってやっぱり生きていると思いますね。その考え方と言うのは。

§神社は共同体社会の中心―場で、イベントは 伝統・習俗・文化である
 今、紹介した幾つかの神社ですけれども、これ全て実は神社本庁に所属している神社なんで
すね。全国の神社本庁にくくられている、神社本庁と言うのは宗教団体ですけれども、それぞ
れの神社が全て神社本庁に所属している訳ですね。神社本庁と言うのは、もう時間がないの
で詳しい事はちょっと申し上げられませんけれども、要するに天皇教な訳ですね。神社本庁と
言うのは敬神尊王と言うのを。向こうは「憲章」と言うのがありますね。憲法みたいなものなん
です。神社本庁は第3条で「敬神尊王」という。この「神」はさっき言いましたように神宮、伊勢
神宮ですね。天照大神。これは皇室を尊ぶ。これは国家神道の考え方そのものを継承してい
る訳ですね。その神社本庁に括られているんです。殆ど全国8万所。
 かなり小さい神社でも、もう神職がいない所でも常駐してない所でも、そう言うのが殆どです
けれども、ですから、そこから様々な指令とか、指示とか出る訳ですけれどもね。「神社は共同
体社会の中心でイベントは伝統・習俗・文化である」というようなのは社会通念ですね。だから
「全員参加が当然である。それが公共性があるんだ」というような言い方。こういう公共性を持
っているから反対する人と言うのを、あるいは異論を持つ人と言うのは排除をされると。この公
共性とか、社会通念の中にですね、その中に神社神道と言うのは、言わばくぐもっているんで
すね。何か滑り込まされていると言うかな。ですから宗教意識というものは、それを見る人達の
宗教意識と言うのは、どうしても希薄になってしまう。全体の中のくぐもっていると言うか。とけ
込まされていると。これがくせ者なんですね。それが神社非宗教論というものに結びつく。これ
は何も新しい考え方ではなくて昔からあるやつですね。昔からって国家神道時代に。国家神道
と言うのはいつ頃出来たか難しい議論はあるんですけれども、かつてあった役所で神祇院と言
うのがあるんですけれども、その神祇院が言った言葉で「神社は宗教ではなく、国家国民道徳
の淵源とする」と。こういうふうに神祇院は言っている訳ですね。それがそのまままだ生きてい
るという事だと思います。

§教育「改革」で強調される伝統・文化―教育 「改革」の提言中「伝統文化」強調
 教育改革で強調されているのはですね、今教育基本法の改悪とかですね、それから奉仕活
動だとか言うのが、盛んに言われています。それは怪しからん話ではあるんですけれども、そ
このですね要になっているのは、この「伝統」という考え方なんですね。教育改革の定義が幾つ
かあるんですけれども、最も注目しなければいけないのは私はこの「伝統」という言葉だと思い
ます。伝統と言うのは文化。伝統(文化)、あるいは伝統文化という言い方をしていますけれど
も、全文をお読みになるのは大変苦痛ですから、お読みになった方はいられるかどうか分かり
ませんけれども、少なくとも4ヶ所出てくるんですね。全文を出ている新聞と言うのはそう多くは
ないんですけれども、「私達の目指す教育改革」という所の、「これから教育を考える視点」とい
う所に冒頭に出てくるのは、「自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超え
た者に対する畏敬の念を持ち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を
育てると共に、社会生活に必要な基本的な知識………」という事が先ず冒頭に出てくる。それ
から「人間性豊かな日本人を育成する」という所の提言の3番目の所に、「学校教育において
は伝統や文化を尊重すると共に、古典・哲学・歴史などの学術を重視する」。それから「新しい
時代にふさわしい教育基本法」。これ長い文章があるんですけれども、その初めの方にですね
「日本人としての自覚、アイデンティティを持ちつつ人類に貢献するという事から、わが国の伝
統文化など次代の日本人に継承すべきものを尊重し、発展させていく必要がある。そして具体
的に3つの提言をする訳ですね。 
 この教育基本法の中で。教育基本法の2番目にですね、「第2は伝統文化など時代に継承す
べきものを尊重し、発展させていく事である。この観点から自然・伝統・文化の尊重になる」と。
繰り返し「伝統」というものが強調されていますね。ですから教育改革のキーワード・中心と言う
のは、この「伝統」にある訳ですね。
 その「伝統」と言うのは、それではいったい何なのか、という事になる訳ですね。少なくても国
民会議の委員とか、政治家達が考えて、これは政党には関係なく、「神道文化が習俗化して社
会化したもの。あるいは共同体化したもの、これを伝統文化である」というふうに彼らは考えて
いると見て間違いないです。だから、そういうようなものって公共性があるという事になってくる
訳ですね。
 その頂点がですね、明治維新で一気に神道化された皇室なんですね。皇室が持つ天皇家、
皇室の文化。かつて皇室と言うのは神道だけではなくて、むしろ仏教の方が強かった。ですか
ら京都には天皇家の菩提寺なんていっぱいある訳ですね。履いてするほどある訳ですね。そ
れで中の儀式なんかも仏教式で行われているのもたくさんある訳ですね。しかし明治維新以降
一気にそれが神道一色になっていくという。ですから伝統の尊重とは、つまり天皇の尊重、あ
るいは皇室の尊重という所に結び付いていかざるを得ない。そしてそこに狙いがある。決して
ここでは天皇とか、皇室とか一言も言ってないです。言ってないけれども、それを代弁する形で
言ってるのが、例えば日本会議という所がありますね。「にっぽんかいぎ」と言うのが正式な呼
び名だそうですけれども、これは神社本庁が音頭をとって作った国民運動組織ですね。日の
丸・君が代とか、様々な事。あるいは憲法改悪、教育基本法の改定。あるいは教科書の問題
に様々な事をやってきている大変恐ろしい団体ですけれども、そこをはっきり「伝統とは皇室で
ある。皇室を尊重する事であるんだ」というふうに言っています。そこに結び付いてくると。だか
ら教育改革の狙いは「そこにあるんだ」というふうに読むべきだと私は思います。
 更に全国八万社を包括する神社本庁の究極の目的は大御世のイヤ栄である。なんと凄い言
葉なんですけれども、「大御世」。天皇の支配する、あるいは天皇を中心とした時代・世界・社
会。これがいつまでも続く。「大御世のいや栄である」と言うのを究極の目的としてはっきり言っ
てますね。何だか今の流れをずーっとここ戦後の50数年見てみますと時間はかかっているけ
れども、神社本庁と言うのは1946年の2月3日に設立されているんですね。もう国家神道が
解体した、制度的に解体したのはその前日、2月2日というふうに言われているんですね。これ
は村上重良さんという宗教学者が見事に解明したんですけれども、46年2月2日。その3日に
神社本庁と言うのが設立されて、そしてこういう事をずーっと長々と時間をかけてやってきた。
それがもう言ってみれば彼らの言葉で言ったら実りつつある訳ですよ。残念ながら。
 ですから教育改革の最も深刻な狙いと言うのは、神道文化を滑り込まれた伝統重視の先に
ある皇室尊重、あるいは天皇尊崇の中に。来年辺りから始まる総合学習の中に既に「神社」と
言うのが入り込んできています。「神社で学習する」とか言うのが、前倒しで入り込んできていま
す。2月11日に今年行われた奉祝中央式典かな、何かの時に小田村四郎という元行政管理
庁か何かの長官になった人が言っている言葉ですね、非常に注目すべき言葉を言っているん
です。挨拶の中で「歴史教科書から神武天皇の御名は抹殺されたが、伝統を知れなければ我
が国が一系の天皇をいただく国家である事は理解できない。子どもたちが正確な史実を学べ
る日が来る事を願う」というふうに出ています。これ神社新報に出ているんじゃなくて朝日新聞
に出ているんですよね。今までだったら、おそらくこういうのは一般誌にはおそらく取り上げない
でしょう。こういう言葉は。これがそのままストレートに出てくる時代になっているという事です。
V.「ウソを生きる」

§服従の果て
 3つ目の問題「ウソを生きる」という事なんですけれども、教育の現場ではですね日の丸・君
が代とか言うのは何ですか。異動とか、処分とかですね。あるいは「強い指導」とか、マスコミと
かですね。そして右翼の街宣車等々ですね。そうして暴力を背景にして強制が日常化しつつあ
る訳ですね。それに服従していくと言うのは、それに嫌だと思う人にとって非常に屈辱である訳
ですね。しかし、その服従するという事が慣れてしまうとですね、それに従っていく事に対しての
痛みというものがだんだんだんだん薄れてしまう訳ですね。それが怖い訳ですけれども、例え
ば鹿児島の中学校なんかでもそういう現象が出てきている訳ですけれども。服従の日常化の
果てにどういう光景が現れるかと言うと、これは日本だけの現象ではなくて、ご覧になった方は
いらっしゃるかも知れませんけれども、昨年評判になった映画で「スペシャリスト」という映画が
あります。これはアイヒマンという処刑された人を描いた映画でドキュメンタリー映画です。これ
は服従を強いられた人のある風景が描かれた恐ろしい映画なんですけれども、つまり強制収
容所にですね、ユダヤの人達を送り込んで行くと言うのが、それは善悪の判断と関係なく自分
の能吏として、仕事としてやって服従をしていく。非常に有能な能吏だったですね。このアイヒマ
ンという人は。その究極的な姿がここに現れているんですね。ですから服従の果てと言うのは
大変怖い。

§服従のメッセージとしてのスローガン
 それを別の形で言ってくれたのがチェコスロバキア。かつてのチェコスロバキア、今はもう2つ
に別れていますけれども、バグラブ・ハベルという劇作家がおります。大統領にもなった人で
す。チェコの。この人がですね、ある本の中で書いている事なんですけれども、まだそういう全
体意識の強いチェコスロバキアの社会にですね、八百屋のおじさんがですねトマトと玉ねぎの
間に毎朝ですね小さなスローガンを置く。このぐらいの大きさの。毎朝。そこには何が書かれて
いたかと言うと「世界の労働者団結せよ」。共産党宣言もいますけれども、「万国の労働者団結
せよ」という、当時は「世界の労働者」というふうに。その八百屋のおじさんはですね、その言葉
を本当に信じてですねそれを掲げているかと言うと、実はそうではない。そんな事ははなっから
信用してない。信じてない。つまり自分の心・思想、あるいは心情・良心と全然違う事をつづっ
た。彼の願っている事はむしろ「売れてくれること」だけを願っているんですね。では何故それを
やるかと言うと、それは政府の命令だから。政府がそういうふうに命令をする。それに従う。そ
れをやらないと自分は「不審者だ」、あるいは「政府の体制を批判する者だ」として疎まれる、あ
るいは排除される。それが怖い。そこに従って政府の忠実な命令に従う人に彼はなっていく。
それをハベルさんがですね「ウソを生きる」というふうに比喩で表している訳です。あるいは「ウ
ソの中で生きる」と。

§服従は思想・良心・信教の自由の「墓場」
 これはどこの社会でもありがちでも、とりわけ締め付けの強い社会でありがちなんですけれど
も、現在の日本の状況に重ね合わせるとですね日の丸・君が代の状況なんかは非常に重ね
合う所があると思います。なぜ政府がそういう事をするかと言うと、やはりそれは政府に従う国
民を作る。それが良き国民である訳ですから。政府にとっては。服従と言うのは、そういう意味
で思想・良心の自由を投げ捨てるという事にもなる訳ですね。国家のシンボルにどう従うか、あ
るいはどう向き合うかと言うのは個人個人の思想とか、良心、あるいは信教の自由の問題に
関わる。これは民衆社会の大前提である訳ですけれども、それを支えるものを壊していくのが
服従、という形で従っていってそれを投げ捨てていってしまう社会。

§不服従者への攻撃
 それで最初は「嫌だ」と言っていた人が従っていく果てのもう1つの光景としてはですね、批判
していた人がですねそれに従ってしまうと、今度最後まで従わない人に対して攻撃をしていく事
になる訳ですね。「なぜ従わないのだ」と判定していく訳ですね。

§「改憲」のもう一つの狙い―戦争の出きる国民づくり
 それも1つの攻撃として。現在、憲法調査会と言うのが昨年の1月に出来て、衆議院と参議
院のそれぞれの調査会で議論をしていますけれども、その調査会のあれはまた問題があると
してもですね、それはちょっと置きますけれども、このガイドラインの関連諸法の制定で「日本
は戦争が出来る国家になった」と、こう言われてます。確かにその通りでしょう。しかし、政府が
あるいは国家が考えているという事は、そういう戦争のできる国家という事だけではなくてです
ね、むしろそういう国家が出来る戦争の体制にですね国民が参加していける、国民がそれに
同意して参加していく国民を作りたい。これが最大の狙いである訳ですね。ハードとしてのそう
いうシステムが出来る事は、例えば今論議の中心になっている9条という、日本の不戦国家の
証として立てている9条。これをいじくるという事によって、そのシステムが変えられる。あるい
はアメリカのニチバン安保条約のあるいはガイドラインを、安保を超えたようなガイドラインを
使ってですね、それをバイパスにして戦争に参加する、対処は出来るかも知れないけれども、
それだけではなくてソフトな戦争に参加できるシステムが必要だ。それには憲法で言えば第3
章。つまり人権条項。ここを押さえるという事ですよね。制約をするという事。その宣伝が有事
立法な訳です。有事立法。この有事立法と言うのはハードの面も持っているけれども、公共の
福祉とか、公のためにその人権条項が制約をするという所に大きな狙いがある訳ですね。そ
れをやっておけば、今度改憲の時にそこも生きてくる訳です。日の丸・君が代の強制と言うの
は、そういう服従を強いる。あるいは国家が目指すですね、その服従を重ねていって国家の命
令に従う国民作りをしていくという所にある。そういう事だと私は思います。それだけではもちろ
んないですけれども。

W.「政治の靖国」「民衆の靖国」そし て戦争責任

§新たなる死者の受け皿としての「靖国」再燃
 それからもう1つ、戦争できる国民作りとして用意されているのが古くて新しい問題では「靖
国」なんですね。これは靖国の再燃と言うのは、99年の8月6日に最初に。つまり日の丸・君
が代の「国旗・国歌法案」というものがですね、見通しのついた段階で当時の官房長官である
野中がですね打ち上げる訳です。それはですね唐突なように見えたり聞こえたりしたかも知れ
ません。しかし、そうではなくてですね、既にさっき言いましたように「ガイドライン諸法」がその
前に成立している。そうすると新たなる、例えば今徴兵制がしかれてないからですけれども、自
衛隊員の死という事は当然考えられる訳です。新たなる死者という事が。そうするとですね、そ
の受け皿と言うのは国家としては用意しておかないといけない。国家として用意しておかない
と。新たな死者の受け皿を国家が用意するためには、前の日本が戦争を行った問題という、
その死者の処遇の問題と言うのをキチッとやらなければいけない。そうすると靖国の問題は常
に引っかかってきた。

§.司法的には決着
 しかし、政府にとって靖国問題の解決と言うのは2つのネックがあった。ハードルを越えなけ
ればいけない。1つは憲法である。もう1つは中国・アジア諸国。とりわけ中国が反対。憲法に
おいては司法の違憲判断と言うのは既に1997年に「愛媛玉串料訴訟」の違憲判決で出てし
まって、それは非常に厳しい。もう1つは中国の反対。これは「A級戦犯を合祀をしている」とい
う事で中国の反対が凄い強いから、これはなかなか難しい。「そういう事で宗教法人ではなくて
特殊法人にしたらどうか」と。それからもう1つは「この特殊法人によってA級戦犯を分祀する」
というやつですね。この特殊法人と言うのは具体的に上がっているのは祭祀法人という名前の
事ですね。祭祀法人。「祭りと宗教は違うんだ」。これは宗教学的にもそういうふうに言われて
いるので祭りと宗教は違う。祭り、祭祀だけを専門にする。何か分かったような分からないよう
な話ですけれどもね、実はですね祭祀法人って日本に1つだけありまして湯島聖堂。これは孔
子を祭っている所ですけれども、これが祭祀法人なんだそうです。この祭祀法人説と言うの
は、実は1969年から74年にかけて靖国神社国家法人が問題になった時に、既に実はこれ
も検討はされて視察にも行ったという事らしいですけれども、再びそれが持ち上がっているん
だそうです。
 しかし、神社本庁を始めですね、右派の反対が非常に強いんですね。この特殊法人化とか、
あるいはA級戦犯分祀というやつについては。これは幾つか理由があるんですけれども、例え
ばA級戦犯分祀と言うのは、これは「A級戦犯に戦争責任を負わせるという事で、東京裁判の
判断を受け入れることになるから、これは怪しからん」という事は常々言ってきましたから、そ
れはやっぱり認められない事になる訳ですね。そういう事で右派の中の綱引きがある訳です
ね。ずっと行われてきた。「やっぱり公式参拝をずっと続けるのが一番良いんじゃないの」。日
本遺族会なんかはそれは強く言ってますけれども、あるいは「憲法改正の状況が進みつつあ
るから、その改憲を待ってからで良いのではないか」というような声もある。あるいは「千鳥が
淵を格上げしたらどうか」とかね、そういう事もある。

§「靖国問題」が蒸し返される複合的要因
 「死者は国家が讃えるのが当たり前なんだ」という国家のあり方。なかなか難しい問題がある
んですけれども、一昨年から今年にかけてずっとそういう状況が続いてきている。それで自民
党の中に「靖国問題の懇談会」も生まれているという。結論は本当は昨年12月に出るはずだ
ったんですけれども、様々なゴタゴタがあってですね延び延びになっていると。意と言うのは大
変まとまりにくいという事があると思います。靖国問題が何故こう何度も何度も蒸し返されるの
かと言うのは幾つか要因があるんですけれども、その複合的な要因として3つほど上げていま
すけれども、
@「侵略戦争に果たした靖国神社。宗教的・軍事的の招致としての役割」というものがですね、
社会の中で充分に総括をされてなかった。ずーっと何十年も特別な位置にあってですね、それ
がキチッと総括をされてきてないという問題がある。ですから「政教分離原則がどうして憲法の
中で設けられているのか」という事が、普通の社会の中でなかなか根付いていない。国家神道
を継承しているような神社本庁の存在すらも殆ど認識されていない。そのために社会の中に刷
り込まれた国家神道の確信的な考え方。
天皇尊崇という事もあるけれども、それよりももっと地域社会で関係あるのはA「神社、あるい
は神道文化と言うのは非宗教なんだ。宗教でないんだ」という。つまりそれは宗教でないという
事は伝統とか、習俗とか、あるいは社会通念だとか。「そういうものなんだ」という考え方。実は
これは国家神道の確信的な考え方なんですね。これが2つ目の社会に刷り込まれた国家神道
の確信。
Aそして3つ目にはですね、これは私がある意味では一番重要だと思っているんですけれど
も、「国のために亡くなった人は国家で追悼なり、讃えるという事は当たり前なんだ」というこの
考え方ですね。ある国家としては意味付けをする。死者に対して意味付けをする。これが重要
な事。毎年8月の15日に「今日の平和と繁栄・成長は戦没者の犠牲のお蔭である」というふう
に言われますね。これはまさに死者を意味付けしている。亡くなった人達を意味付けしている
訳ですね。ここで亡くなった人達に謝罪をしている訳ではないです。国家は。あるいは「もう二
度とあなた方達のような死者を作りませんよ」という事を約束するんではない訳ですね。ただ
「お蔭で今の平和があるんだ」という。これはつまり「国のための死者」という事を讃えるという
事になる訳ですね。

§相互に支え合う構造
 もっとあるかも知れません。少なくとも幾つかの要素がですね絡み合って一般の人々の靖国
観みたいなものが出来上がっていく。それと町内会・自治会の関係というものはですね相互に
関係し合っている、支え合っている。ここで「下支え」と私は言っていますけれども、むしろお互
いが支え合っているんじゃないかと。つまり@ABが一体となって出来上がっている私たちの
靖国観。あるいは靖国意識を支えているのが地域の神社と町内会。あるいは自治会の極めて
あいまいな関係。あるいは一体化。溝口さんの言葉を言えば「自治会神道」という事になるかも
知れない。これは相互に支え合っているという事を語っているんじゃないか。ですから靖国問
題は司法の場では決着をしているんですけれども、実は公式参拝に対する世論調査をする
と、むしろ賛成の方が多いんですね。これはそうした民衆の靖国観。社会の靖国観がそういう
ものを支えているというふうに。その支えている要素として自治会と、例えば町内会と神社の地
域の神社の関係と言うのはそれを支えている。
 戦死者を粗末にしたら国民は二度と国のためには戦わないですね。だから意味付けをする
という事。死者が後からどんどんどんどん加わってくれるためには国家は意味付けをしていか
なければいけない。これは日本だけではないんです。アメリカでもそうだし、ロシアでもそうだ
し、フランスでもそうです。国民国家と言われる所はだいたい大なり小なりそういう様々な装置
が出来ているんですね。「愛媛玉ぐし料訴訟」の違憲判決の問題と言うのは、そういう所も実は
あるんですけれども。

まとめ
 
 とりあえず、まとめとしてですね改憲勢力の最終目的はどこにあるのかと言うと、改憲だけが
目的ではないんです。改憲は実は手段である訳です。何のための手段かと言うと、最終の目
的は繰り返しますけれども、「国(公)のために死ねる」、あるいはそれは別の言葉で言えば「他
者を殺せる」ですね。「他者を殺せる国民を作っていく」、これが改憲の最終的な目標なんです
ね。国のために死ねる国民を作るために、だから国家の命令に服従しやすい人を作っていか
なければいけない。だから、そのためには幾つかの装置、日の丸・君が代もそうであるし、地
域の自治会と神社の問題もそうかも知れない。教育改革もそうだ。そうした精神の動員装置と
して民衆の靖国観というものがあるんだと私は思います。
 ですから足下の自治会と神社の関係を問い続けるという事は、非常に重要な事だと私は思
います。これが大きく言えば、国のためには死ぬという事への疑い。つまり国のため他者を殺
す事への疑いというものを生んでいく訳ですね。ですから足下の問題を見つめ直す。あるいは
具体的に異議申し立てをしていく。それは一鳥一石にはなかなか変わらない。だけども変わる
という事が出来る、道筋を作る事が出来るという事。
 現在の政治・社会状況と言うのは、本当に言ってみればグローバリズムと言われる中のナシ
ョナリズムですよね。極めて厳しいという事は間違いないですけれども、繰り返しますけれど
も、たった一人でも足下の問題に対して具体的に問うという人が、全国的と言っても良いでしょ
う。出てきている。私はそういう人達をなるべく丁寧に見つめていきたいし、なるべくそういう声
を取り上げていきたいというふうに思っております。
 ですから締めくくりの言葉になりますけれども、「いかに現状が凍りついているように見えて
も、そこから違った未来を想像する。諦めは最悪の選択である。批判し、抵抗を続けることに
よってのみ新しい世界が拓かれる」というエドワード・サイードの言葉と、私の言葉を合わせて
最後の締めくくりにさせていただきます。

                                   (文責 備後靖念会)

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