インドに仏教の再生を求めてーサンガラトナ・マナケさんへのインタビュー

         インドに仏教の再生を求めて
ーサンガラトナ・マナケさんへのインタビュー



プロフィール:さんがらとな・まなけ 1962年インド生まれ。1971年来日、比叡山で修行。    
        1985年帰国し、「禅定林」を設立。パンニャ・メッタ協会日本委員会(PMJ)理長。



司会:まず最初に、インド社会の現状と仏教への集団改宗の歴史についてお聞かせ下さい。

サンガラトナ:お釈迦さまはインドで生まれられましたし、仏教の発祥の地がインドでありますか
ら、現在もインドの中に仏教の社会が連綿と続いているであろうと考えがちですが、実際には1,
500年前(日本では聖徳太子の時代)に、インドから仏教はなくなってしまいました。その後、今
から50年ほど前から少しずつ、仏教復興の運動のともしびが広がり始めました。なぜなら、イ
ンドではカースト制度が4,000年間続いており、今日法律上では「カースト制度はない」とされて
いても、実際の日常生活では、カースト制度によりさまざまな問題、事件が起こっています。何
もなくて貧しいアフリカの国々と違って、豊富な地下資源や優秀な頭脳(人的資源)を持つインド
は決して貧乏な国ではない、と私は思いますが、国の政策として、経済的な分配方法が偏って
おり、上の人が沢山とり、下の人が少しで我慢する、というやりかたが以前からのカースト制度
の偏り方と同じなのです。そのカースト制度・差別撤廃の運動の一つとして、1956年にインド独
立後初代の法務大臣であったアンベードカル博士(1891--1956)が、自らヒンドゥー教から仏教
に改宗し、彼の指導を仰いでいた人たちが50--60万人の規模で集団改宗しました。博士はマ
ハールという不可触民のカースト出身です。インドでカースト制度は職業に直接結び付いてい
ますが、一般の人がいやがる職業(行き倒れの死体の片付け等)につかされている不可触民
は、(私もその一人ですが)食うや食わずの生活をし、聖なる動物である牛の死体を片付け、そ
の肉を食べなければ生きていけません。ヒンドゥー教で大事にされる牛の肉を食べるから、彼
らは不可触民である、と定義されるのです。博士は学業に優秀で、カースト制度に批判的な
人々の支援を受け、イギリスとアメリカに留学します。そこで努力と能力を認められ様々な学位
を取り、インドへ帰ってきますが、インドでは博士号をいくら持っていてもマハールはマハールで
しかない、という認められ方しかされません。彼は悩み、カースト制度にしいたげられ、抑圧さ
れる人々の苦しみにいてもたってもいられず、いろいろな社会活動を始めます。それまでヒンド
ゥー教徒であっても、(「汚れている」という理由で)お寺の中に入ることが許されず、公共の池で
水浴びをすることができなかった(今日でも不可触民が使用して「汚れた」水を清めるため、牛
の糞、尿、乳等で清めの儀式をした例があります。それに対して立ち上がり、抗議しないと社
会問題化せず、泣き寝入りになります)ことに抗議し、彼は多くの人々を連れてお寺に入り、ま
た池に入り水を飲みました。しかしいくら頑張っても実を結ばない、それはカースト制度を教義
として認めるヒンドゥー教の中にいるからである、と彼は気付き、「人は生まれた家の宗教を選
ぶことはできないが、どの宗教の一員として死ぬかを選ぶことはできる。自分はヒンドゥー教徒
として死にたくない」と誓願を立てました。20年かけてキリスト教、イスラム教、シーク教などさま
ざまな宗教を比較研究し、その結果自分が考えている生き方にもっとも指針を与えてくれ、真
の平等性を説くのは仏教である、として1956年10月14日(アショーカ王インド征服の記念日)、彼
はヒンドゥー教から仏教に改宗したのです。社会運動家や政治家としては自分自身に限界を
感じていた彼は、宗教家として生きることにより、政治と社会活動にも取り組むことができる、と
考えていたのではないでしょうか。宗教的な感覚を持って社会にかかわっていくことの大切さに
気付き、彼は宗教者の道を選んだのです。改宗後すぐに博士は亡くなってしまいましたが、イ
ンドの現状を見た場合、彼のやりかたが正しかった点は、「自分は改宗する」と宣言しても、他
人に強制しなかったことです。「自分は変わるのだ」という意識を人々に持たせることを第一と
し、ましてや仏教の細かい思想、哲学や現世の利益を問題にしたり、改宗した人の数にこだわ
ったりすることはありませんでした。むしろ、20年間の努力と社会的実績があったからこそ、50
万以上の人々がアンベードカル博士についていった、と言えるでしょう。集団改宗にあたり、ビ
ルマから大僧正を招き、ナグプールで上座部仏教に基づいた改宗式がおこなわれましたが、
これから仏教徒として生きていくことがどういう意味を持つのか、という点についての一般の
人々を導く間もなく、改宗の二ヶ月後に博士は亡くなります。あと3年から5年、もしも彼が生き
ていてくれていたら、インドの仏教はもっと確固としたものとなっていたことでしょうし、彼の遺志
は本当の意味で受け継がれていたことでしょう。

                   

司会:サンガラトナさんはどのようなきっかけで日本に来られたのですか。

サンガラトナ:私の父親はアンベードカル博士がナグプールで行った社会活動の中で、彼の片
腕として長い期間活躍し、集団改宗式でも責任者の一人でした。1967-68年ごろ、ナグプール
の仏教会の会長であり、アンベードカル博士の遺志を継いで自分たちに何ができるか、という
ことについて思いをめぐらせていた私の父のところへ、日本の比叡山より、十二年籠山行を終
えられ、三年間の予定でインドを巡拝されていた堀澤祖門師が半年間滞在されました。それが
日本の天台宗とインド仏教会の交流の発端です。ナグプールには掘っ立て小屋のようなお寺
が一、二あるだけで僧侶はほとんどおらず、教義、思想もない、ないない尽くしの状態であるか
ら、この男の子を日本で学ばせ、インドへ送り返してもらえないか、との父の希望が堀澤師に
伝えられました。前例のないことでしたが、比叡山の許可が出て、1971年、九才の時一人でカ
ルカッタから飛行機で私は日本の羽田空港に着きました。遠い東のどこかに日本という国があ
る、という程度の認識ですから、見知らぬ隣り町にやってきた、という感覚ですぐ比叡山に登り
ました。下界のことを何も知らず、比叡山すなわち日本、という生活の始まりでしたが、結果的
にそのことがよかったと思っています。日本語をまったく知らないまますぐ小学校三年生に編
入しましたが、幸いにも外国人と言う理由でいやな思いをしたことは一度もありませんでした。
日本には足掛け十五年滞在しましたが、その間ほとんど帰国しませんでしたし、日本語は最初
の三ヶ月で吸収しました。中学校一年生で得度し、高校卒業後、叡山学院で学び、「居士林」
(在家信者のための道場)で一年間助手を勤めたあと、1985年に外国人として初の百日回峰行
を終え、インドに帰国しました。

司会:帰国されてからの活動は。

サンガラトナ:母国の仏教会が私を暖かく歓迎してくれた、とは言えませんでした。僧侶は私以
外全員が南方系上座部仏教ですから、大乗仏教徒で黄色い袈裟を身につけない私は、空手
教師に間違えられたりして、僧侶として見られることはありませんでした。実際私以外のインド
人の僧侶は阿羅漢(あらかん、供養に値する人の意)であり、他人に世話してもらうことはあっ
ても、他人の世話をすることはありません。私の場合は自分で土木工事をしたりしますし、毛色
の変わった存在でした。自分でもこれからなにをやっていいかわからない二十四才の駆け出し
であり、日本の大乗仏教そのままをどのようにインドにうまく反映していくか、とい問題がありま
した。私が長年かけて気付いたことは、インドに必要なのは大乗仏教です。1,500年前にインド
で仏教が滅びたのは、イスラム教徒のせいではなく、仏教内部の問題のためではなかったか、
つまり、上座部仏教のように、人里離れた僧院に住み、托鉢(たくはつ)以外に一般の在家信者
との接触がほとんどなくなってしまっていた僧侶が社会に何の影響力ももてなくなっていたこと
により、仏教が滅んだのであるといえるでしょう。アンベードカル博士が求めたのは大乗仏教
の菩薩でした。私はインドに戻って二年間、インド語もわからず、ただがんばって「禅定林(ぜん
じょうりん)」というお寺を建てました。(建設資金は堀澤師が天台宗の末寺に呼び掛けて用意し
てくれました。)お寺が建って、では何をしよう、という段になって困りました。日本仏教の伝統の
中で育ち、こちこちになっていた私は、インド人の学生四人と共同生活を始めました。言葉を学
び、人々が何を求めているのかを探し始めました。次第に現実がわかるようになり、求める
人々とのバランスをとりつつ、活動を始めました。インドでは精神的な救いよりも、まず具体的
な成果をあげることにより、仏教というものを理解してもらうことが大切です。孤児院をつくるに
しても、インドでは国や自治体など公共のものはまったく頼りになりません。自分が何かをしよ
うと思ったら、その場所、環境等はすべて自分で用意しなければならないのです。

私がまず始めたのは、日曜学校(寺子屋)でした。一般に、仏教のお寺には他の宗教の信者は
入りにくいのですが、この学校は重宝がられました。私のお寺のある村は、人口1,500人ほどで
大半はヒンドゥー教徒ですが、彼らは農業や土木工事等に日雇いで従事し、日曜も働かないと
食べていけません。(休みは年に二日ほどです。)村の学校が休みの日曜日、寺子屋は安全に
子供を預けられる場所であり、また仏教徒すなわち不可触民であるという認識の中で、日本で
学んだ私にはそのような「におい」がなかった、ということもあるでしょう、子供たちの四割が学
校にいっておらず、村人の六割が字を読めないこの村で、私の寺子屋は始まりました。(勉強
をしたから食えるようになる、という考えは親達にありません。教育を受けさせるのは就職のた
めの基礎をつくることですが、就職するために本当に必要なのは財力とコネである、というイン
ドの常識の中で、わざわざ学校にいく必要はないのです。財力とコネをもつとは、上位のカース
トにいることです)子供たちを日曜に八時間ほど預かり、情操と生きていくために必要なこと、例
えばなぜおなかが痛くなるのか、といった生活に密着したことを教えます。子供ですから、先生
がいうだけでは聞きません。本来、親や社会が子供たちに教えなければならないことがらを、
それができない家庭ばかりですので、代わりに寺子屋が工夫しながら教えていくのです。経営
的には、8,000坪の敷地を学生三、四人と私が耕し、食うや食わずの生活でした。子供たちに
食事とはいえない、飴やビスケット二、三枚を与えることにもぎりぎりの余裕しかありませんでし
た。百人近い子供たちが毎週通ってきていましたが、一、二年続けるうち、今の活動が成果を
生まないことに疑問を感じ始めました。ちょうど砂漠に水を撒くように、自分たちの教えること
と、子供たちの置かれた環境が違い過ぎるのです。(インドでは、成人を対象とする六ヶ月間の
識字学校が開かれ、そこを卒業した人の数が国連に報告されるのですが、修了後彼らは生活
に追われ、新聞や本を読むことはありませんので、字に親しむ機会がなく、もう半年もすれば
字をすっかり忘れてしまいます。)それをふせぐため、お寺で図書館を造りました。いつか本を
読める状況がくる、その時に備えるため、また、字が読めないことで給料の額をごまかされる
ことのないようにするためです。さらに、自分たちの活動がうまくいかないのは、子供たちが週
一回八時間しかお寺にこないからだ、それならば週七日、二十四時間体制で少数の子供たち
と共同生活して、活動の質を高めようと話し合いました。驚いたことに、ラジオが五、六台、テレ
ビは一台しかなく、情報源のないその村で話し合いの内容があっという間に伝わり、お寺に子
供たちの家ができるらしい、と情報が広まり入所希望者が殺到しました。そのうち、どこにも行
き場のない七人(女三人、男四人)を見るに見かねず受け入れ、六畳一間での共同生活が始
まりました。彼らはここでなければ路上生活するしかない子供たちでした。三年ほどはすべて
の世話を自分一人でやり、その後天台宗仏教青年連盟の支援を仰ぐようになり、お寺の隣の
土地を買ってもらい、五十人が生活できる子供の家も建ててもらいました。現在は三十五人の
子供たちと職員とで、一回五十人分の食事を一日三回作っています。ナグプールにあるチベッ
ト難民キャンプとのつながりから、浄土真宗の団体との関係も生まれましたし、現在パンニャ・
メッタ協会の会員約300人から定期的に援助をいただいています。他にも、お寺から300キロメ
ートル離れた村で巡回医療の活動をしています。資金が集まれば、病院に発展させたいと思っ
ています。ただ、私のやりたい活動は、ものを与えることではなく、人々の意識の改革です。

よく、このような活動は無償でされるべきだ、といわれますが、私はそれは間違いであると思い
ます。短期間のボランティアは無償でもできますが、長期にわたる場合は有償で、生活基盤を
もったうえで、その人がどれだけの気持ちでそこにかかわっていけるか、ということが大切で
す。保母さんにしても、お医者さんにしても、二十四時間勤務の部分がありますから、保母さん
は母の気持ちで子供に接し、お医者さんは協会の趣旨に賛同してやっている、ということであ
れば

  
 ボランティアであるといっていいと思います。

司会:仏教徒としてサンガラトナさんの目指されるものは何ですか。

サンガラトナ:まず、私が基盤とする仏教の平等観について考えてみますと、八十才の老人に
二十才の若者と同じ量を食べることが無理であるように、平等とは、それぞれの立場における
平等が真の平等ということです。またそれは、カースト制度が唱える、「そこに生まれたからそ
こで生き、現状に満足することが平等だ」といったインド的な考えとは大きく異なっています。わ
たしは基本的に、世の中にボランティアは必要ないと思っています。老人に対するケア、障害
者に対するケアは恒久的に必要ですが、私のおこなっている孤児院活動のように、社会や親
がしっかりしていれば、つまり本来社会がまっとうに動いていれば、必要のないボランティアの
方が圧倒的に多いのです。そのように考えるのは、自分の活動を自分の行として、布施行(ふ
せぎょう)として考えるからです。ボランティアという言葉には、自発的意志、という意味があり、
本来個人的で押し付けとは異なるものですが、現実には、強制された、あるいは免罪符として
の側面が強いと思います。
  災害に苦しむイスラム教国にハム(豚肉)を送るような、冒涜ともいえる自己満足のための方
法とは異なり、布施ならば自分の修行をしているわけですから、見返りは何もなくてもよいので
す。それで自分が一つの功徳を積ませていただいたことになります。ところが、今日のボランテ
ィアは「してやっているのだ」と上からものを見ている感覚があり、それは違う、と私は思いま
す。本当に他人のためになにかするならば、見返りを求めてはいけないのです。

司会:布施行を実践する活動において、命の危険を感じられる時がありますか。

サンガラトナ:私の活動に際して、危険は空気のように普通にあります。間接的な脅迫、大事な
法要の際に限って起こる停電など、いちいち気にしていては、一歩も前に進めません。

司会:日本の仏教界に何を望まれますか。

サンガラトナ:宗教家は自分の宗教に対して、もっと自信を持つべきです。僧侶の服装にして
も、自覚を持って身につけて、公共の場に出るべきです。もっと社会と密接に携わっていくべき
ですし、大乗仏教の僧侶としての自覚をどれだけ持っているか、もう一度考えてみるべきでしょ
う。

司会:どうもありがとうございました。

(『共命鳥』17号より転載)
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